日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

家康の「しかみ像」に新説が!

2023-05-29 | 徳川家康

誰もが一度は見たことの「しかみ像



『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)は、顔をしかめ憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれ、徳川家康三方ヶ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにした家康の肖像画の一つとされてきましたが、近年の研究では、それが否定されています。

しかみ像を所蔵する徳川美術館の調査によると、「台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめの所持品とあり、尾張徳川家9代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と1780年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。」とのこと。

Wikipediaによると、

「本図は18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝来し、当時は「家康の肖像画」とのみ伝えられていたが、明治期以降の尾張徳川家では「長篠戦役図」とされ、1910年(明治43年)に同家が開催した展覧会に出品されると、その特異な容貌・姿態から珍重されると同時に、「敗戦時の家康の肖像を、同家初代当主・徳川義直が、当時の窮状を忘れないように描かせた」との口伝が付され、本図が尾張徳川家から財団法人・尾張徳川黎明会が運営する徳川美術館に移された後、1936年(昭和11年)に開催された展覧会に出品された際に、美術館側により「三方ヶ原の戦い」での敗戦を「狩野探幽に描かせた」図、更に1972年(昭和47年)頃には「家康自身が描かせ」、「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」との情報が付与された。

この口伝は、「三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿」という説明が本図の異様な容貌・姿態を理解しやすくし、また「家康が、自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という逸話が家康の人間性をよく表しているとされ、「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」という人生譚が現代の日本人の共感を呼んで歴史書や経済誌などでも取り上げられたことから、広く周知されることになったとみられている。」

岡崎公園のしかみ像


世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館蔵)は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となって多くの家臣を失った家康公が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられています。しかし、この逸話は近年の研究により、近代以降の創作話であることが明らかとなった。
「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を作り上げる礎になったと云われます。
このしかみ像は、原資料を基にして製作された石像です。(岡崎市公式観光サイトより)

浜松市博物館の徳川家康公立体しかみ像



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「家康伝承と浜松」展

2023-05-15 | 徳川家康

浜松市博物館で開催中の「家康伝承と浜松」展。

浜松城や北遠の城の出土遺物や三方ヶ原の戦いの布陣図、後世における徳川家康の由緒や伝承を記した古文書や書籍、三方ヶ原の戦いを描いた絵、徳川家康ゆかりの食品にまつわる資料等が展示されています。

武田家禁制




三ヶ年の鬱憤

三方ヶ原の戦いに関わる武田信玄書状を期間限定で展示されています。
~5月28日(日)(期間限定)

三方ヶ原の戦い(元亀 3年(1572)12月22日)の直前の同年10月21日、遠江に進軍してきた武田信玄が三河国の国衆の奥平道紋に宛てた書状。



浜松に向かい徳川家康と戦い「三ヶ年の鬱憤」を晴らすと表明しています。

個人の方からお借りしている資料であるため、実際に見ることができる機会が少ない貴重な資料なのだそう。

武田信玄書状



三方ヶ原の布陣図



三方原絵図

遠州味方ヶ原合戦図



天竜川御難戦之図



一言坂の戦いを題材に描かれています。

光明勝栗



光明勝栗の伝承
三方ケ原の合戦の直前、徳川家康は光明山(浜松市天竜区)で武田側の大軍と戦い、只来村、山東村の農民の加勢を受けた。その時に「かちぐり」を献上された家康が縁起物だと喜び、地名にちなんで「高名(功名)勝栗」と名付けた。両村は幕末まで将軍家に献上を続け、代わりに賦役を免除されたという。

忍冬酒の看板


浜松の酒蔵元、神谷権兵衛が忍冬を漬けこんだ忍冬酒を作り上げ当時、浜松城に住む家康に献上したのが始まりです。
自ら漢方薬を調合するなど健康を気遣う家康はことのほか喜び愛飲されたとのことで浜松名物となりました。

スイカズラの別名をニンドウ(忍冬)といいます。冬場を耐え忍ぶ事からこの名がつきました。スイカズラの茎・葉を乾燥したものは、漢方で浄血・利尿・解毒薬などにも用いられています。

天野氏と犬居城

北遠の国衆と城郭

奥浜名湖の国衆と城郭

平野部の国衆と城郭

伝松下屋敷の出土品

引間城の出土品

しかみ像


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三方ヶ原の合戦に纏わる御殿屋台

2023-05-06 | 徳川家康

浜松まつりの夜には、豪華絢爛な御殿屋台の引き回しが行われます。

三方原南の御殿屋台の彫刻には、三方ヶ原の合戦での家康と信玄が彫られているそうです。

一昨日撮影したのは、屋台の背後からでしたので、正面の彫り物が写っていませんでしたが(^0^;)


2022年5月の中日新聞によると、

北区三方原南町の「三南(さんなん)組」は、2015年に新築し、16年から引き回しに参加していたが、彫師の体調不良のため、屋台の上部と下部の一部彫刻が未完成となっていたが、2022年4月中旬に新しく彫刻が完成した。
屋台は幅三・六メートル、長さ五・一メートル、高さ五・一メートルで主にケヤキ造り。前面の下部には、徳川家康がこよなく愛したとされる霊獣の獏(ばく)が新しく彫られた。獏は金属を食べるため、金属が武器にされる戦時中は生きられず、平和を好むという言い伝えがある。


こちらのサイトに詳しい解説がありますので、リンクを貼っておきます。

https://asdk.sakura.ne.jp/hamamatsu/mikataharaminami/02.html

 

 


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小豆餅と銭取

2023-05-03 | 徳川家康

浜松には、徳川家康武田信玄との三方ヶ原の合戦ゆかりのお菓子があります。

御菓子司「あおい」小豆餅と銭取です。

「あおい」の小豆餅銭取の由来によると

「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。
その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。
何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ余り追いかけ、とうとう家康から銭を取ったとのことです。
この時、餅を食べたところを「小豆餅」銭を取ったところを「銭取」という地名になったと言われ、浜松の一角に小豆餅、銭取として遠州バスの上り、下りのバス停として残っています。」

Wikipediaによると

「徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べたことする伝説に由来する。
このエピソードにはさらに続きがある。家康が小豆餅を食べている時に武田軍が追ってきたため、家康は代金を払わずに馬に乗って逃げた。しかし茶屋の老婆が走って家康を追いかけ、やっと追いついて家康に代金を支払わせた。この老婆が家康に追いついたところが「銭取」という地名として残った。現在は町名としては存在せず、遠州鉄道の路線バスのバス停(気賀三ヶ日線ほか40番台系統。行政地名としては中区和合町)として残っているのみである。
この逸話は後世の創作で、実際には三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を備える習慣が続いたことが地名の由来である。『浜松風土記』には慶長年間のこととして、浜松城主堀尾忠氏の弟高階晴久が三方ヶ原に立ち寄り茶店で小豆餅を食べたところ、次々と奇怪な出来事が起こったので慌てて店を飛び出し、町まで逃げ帰った。翌日、晴久は多数の供をつれて昨日の場所に行くと、うら寂しい大野原に三方ヶ原の戦いの戦死者の白骨が散乱していたので、掻き集めて焚いて埋め、小豆餅を供えて大念仏で法事を営んだことが由来であるとの記述がある。また同様に、銭取はこの辺りに山賊がよく現れたことに由来する(山賊に銭を取られるため)。三方ヶ原の戦いがあった時期、三方原台地に民家まして茶屋などは存在しなかったが、当時の家康の必死の逃亡をよく表現した伝説として、長く地元の人々に親しまれてきた。」

浜松出世祭りの際、久しぶりに小豆餅と銭取を買ってみました。

小豆餅は黒砂糖やもろこしが入った餅生地で北海道産の大粒小豆の餡を包み、きなこをまぶした大福



銭取は小判型の和風マドレーヌ



家康になった気分で食べてみました。
どちらも程よい甘さで、ついつい二つ目に手を伸ばしてしまいそうです


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