日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鷲津の本興寺(1)山門~四つの塔頭

2020-05-28 | 仏閣

湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上人の開山で、今川氏の帰依や徳川家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇りました。

山号は常霊山。院号は大悲院。本尊は三宝尊。

山門は、愛知県豊橋市の吉田城から移築したもの。

山門(惣門)
 もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に
吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。
 改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた
風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。
その後、亨保10年(1725)に硯在の本瓦葺きに改修されました。
 なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。

300mという長い参道の両脇に塔頭が四院あります。


 浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300メートルに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。
 文化14年(1817)二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保9年(1838)三十一世日融の代に再整備されました。
 平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6メートル、全長140メートルにわたり
完全舗装整備を行いました。

光明院

東光院

玉葉院

長勝院

 

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新居町の散策(6)隣海院

2020-05-19 | 仏閣

湖西市新居町の隣海院は、日ヶ崎隣海院という天台宗の寺でしたが、明応の災害で流出し、新居に移されたと伝えられています。

慶安元年(1648)新福寺三世進外能迪和尚を開祖と仰ぎ、曹洞宗に改めました。

宝永四年の災害で諸堂のすべてが流出し、翌年現在地に移り日ヶ崎山を新居山に改めました。

文化七年(1810)に火災に遭い、翌八年に庫裡、文政二年(1819)に本堂を再建。

山門は宝永年間建立の四脚門で、梁上に「ジキジキ」と呼ぶ憤怒像の彫刻があり、参詣者の邪心を祓うと言われています。

ジキジキ像を撮り忘れてしまったので、こちらのサイトで、ジキジキ像の画像をご覧ください。

http://www.sotozen-navi.com/detail/index_221173.html

山門に参拝者を見下ろすような形で祀られている「ジキジキ像」は、真っ赤な顔と体で鬼の形相をしており、魔除けのために建立されたと考えられています。

本堂

ソテツが巨大過ぎて、本堂がよく見えませんでした(;´∀`)

鐘楼もまた木に阻まれていました(^^;

 
 隣海院 
 永享8年(1436)真達将公和尚が日ケ崎村に隣海庵を開創し、慶安元年(1648)曹洞宗に改宗するとともに進外能迪和尚を迎え、日ケ崎山隣海院となる。
 宝永4年(1707)大地震の大津波により諸堂が流出、翌年当地に移転、日ケ崎山を新居山と改める。
 文化7年(1810)の大火災により諸堂が消失したため、各所の修理、改築を行った。山門は火災を免れ、最も古い建物として残り「ジキジキ像」が祭られている。位牌堂には山岡鉄舟の額、鐘楼堂東には歌碑、観音堂には三十三観音像がある。(駒札より)

 

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新居町の散策(5)本果寺(ほんがじ)

2020-05-12 | 仏閣

本果寺はもともと真言宗の寺でしたが、元中七年(1390)に法華宗に改宗。



天正二年(1574)に徳川家康から徒役免除及び朱印四石五斗の判物を与えられました。



山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれています。

明治元年(1868)、有栖川宮東下にあたり祈願寺とされました。


あけぼのの鐘

春は、境内を八重桜が彩ります。




本果寺
 もとは真言宗のお寺であったが、元中七年(1390年)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。

 宝永四年(1707年)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。

 徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。

 俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。

 平成十二年一字一石経の経塚に、「あけぼのの鐘」が建立された。

 

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新居町の散策(4)神宮寺

2020-05-05 | 仏閣

新居町の神宮寺は、応永二年(1395)仲翁和尚による開山と伝えられる寺です。

江戸時代後期までは代々の住職がありましたが、嘉永元年(1848)から東福寺が兼務するようになったそうです。(湖西市観光振興協議会HPより)

 

子安観音の子安殿


宗派  臨済宗 方広寺派 白翁山 神宮禅寺
本尊  阿弥陀如来 地蔵菩薩
創建  応永2年(1395)

開山  悦翁大園真覚禅師
    聖鑑国師(無文元選禅師・後醍醐天皇の皇子)の法を直伝。


 寺紋は十六菊、伊勢神宮信仰に関係があったと思われる。創建時は、日ケ崎にあったが宝永4年(1707)の大地震後、新居宿のまちづくりと共に、現在地に再建された。  明治になって要津寺と光珠庵が当寺に合寺した。
 境内には、子安観音(安産と子育て)、関所稲荷(忠臣蔵にでてくる土屋主税が建立)東海道の旅人の安全を見守っていた鯖弘法大師等が祀られている。(駒札より)


土屋 逵直(つちや みちなお、万治2年(1659年) - 享保15年8月3日(1730年9月14日))は、江戸時代前期の旗本寄合。通称は主税、一般には土屋 主税(つちや ちから)として知られる。上総久留里藩主土屋直樹の嫡男。妻は甲斐庄正親の女。子に亮直、好直、友直、伊奈忠正室。 

藩主世子としてゆくゆくは家督を継ぐことが期待されたが、父・直樹は逵直が20歳になっても将軍に御目見させず、他にも諸々の奇行や不行跡が重なり、延宝7年(1679年)8月に狂気を理由に改易された。それでも嫡男の逵直には、父祖の功績により、遠江周智郡で3千石が与えられ、以後土屋家宗家は旗本寄合席として幕末まで存続する。 
この年の10月、逵直ははじめて登城して4代将軍家綱に拝謁。天和3年8月 (1683年)には御徒頭を拝命、同年12月には布衣を許された。元禄6年 (1693年)に御徒頭を辞した後は無役で、俳諧の宝井其角に師事して時折本所松阪町の自邸で連句の会を催す、風流旗本に徹した。元禄14年(1701年)8月、土屋邸の隣に先に殿中で浅野長矩に刃傷に及ばれた前高家肝煎・吉良義央が越してきた。元禄15年12月14日 (旧暦) (1703年(1702年ではない)1月30日)、赤穂事件が起こり、吉良邸は幕府預かりとされた。 
正徳4年(1715年)12月、家督を嫡男の亮直に譲って隠居する。享保15年(1730年)に死去した。享年71。墓所は東京都豊島区駒込の大林寺にある。(Wikipediaより)  

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