日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

静岡駅前の竹千代・今川義元・徳川家康の銅像

2024-09-21 | 徳川家康

静岡駅北口駅前広場にある銅像を紹介します。

徳川家康にとって駿府は、最長約25年を過ごした地です。

今川家の人質として過ごした幼少期と江戸に移るまでの数年間、晩年の大御所時代の3度を駿府城で過ごしました。

竹千代像は、家康が8歳から19歳まで今川氏の人質として過ごした幼少期の姿。

竹千代像
IMG_6451 竹千代像

この隣には、今川義元公生誕五百年祭を記念し、令和2年に設置された今川義元の甲冑姿の銅像もあります。

今川義元像

そして、こちらは、壮年期の家康像です。

徳川家康像




平成19年度に家康の駿府城入城四百年を記念し、「大御所四百年祭」展開してきた事業の一環として平成21年3月19日、銅像が設置され、像台座の題字は、徳川宗家第十八代当主・徳川恒孝氏によって書かれました。



三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を支配した頃の壮年期の家康の姿です。

この像の横に、久能山国宝指定記念碑があります。

久能山国宝指定記念碑


そして、なんとこの2つの家康像、義元像、久能山東照宮が一直線上に並んでいるのですって!

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静岡の蓮永寺(2)お万の方の供養塔

2024-09-09 | 徳川家康

蓮永寺の墓所には、お万の方の供養塔があります。

養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万。
母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭の娘、あるいは田中泰行の娘(=北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉の娘・姪)ともいい、諸説ある。
実父の正木頼忠は上総勝浦城主正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は後北条家家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。
伊豆で成長した万は慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となった。万は慶長7年(1602年)3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年8月に鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石が長福丸に与えられ、慶長11年(1606年)に下総下妻10万石が鶴千代に与えられた。慶長14年(1609年)には、長福丸は駿河・遠江50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封された。(Wikipediaより)

その他、勝海舟の母・信子と、妹(佐久間象山の妻)じゅんの墓もあります。

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静岡の蓮永寺(1)駿府城鎮護の寺

2024-08-30 | 徳川家康

静岡市葵区の沓谷(くつのや)にある蓮永寺は、文永11年(1274)、日蓮上人の高弟・日持上人によって庵原郡松野村(現在の富士川町)に開創されました。

その後、衰退しましたが、徳川家康の側室・お万の方の発願により、元和元年(1615)、駿府城鎮護の寺として現在の沓谷に移し、再興されることになりました。

山門


仁王門


実に広々とした境内です。



鐘楼


庫裏


客殿


本堂



蓮永寺(貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ)
 蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあったが、元和元年(1615)、お万の方(の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興されたものである。
 お万の方は、上総国(千葉県)大滝城主正木左近太夫頼忠の娘で、後に伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり、徳川家康に仕えて2人の男子を産んだ。上の子は、家康の第10子頼宣(紀州家)で、下の子は、第11子頼房(水戸家)である。水戸黄門の名で知られる水戸光圀公はお万の方の孫に当るわけである。
 お万の方は、熱心な法華経の信者で、特に身延山久遠寺日遠上人の帰依者であった。元和2年(1616)4月17日に、家康が駿府城で歿すると、剃を下して養珠院と号し、この蓮永寺にこもって、家康公の菩提を弔ったということである。晩年は、わが子頼宣のもとで平穏に暮らし、77歳でこの世を去った。
 境内には、当時の権勢を誇るかのように、身の丈を越える立派な供養塔が建てられている。また近くには勝安房の母信子と妹じゅん(佐久間像山の妻)の墓がある。
 寺宝 家康ゆかりの品が数多く保存されている。
             静岡市

 
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竹千代ゆかりの井戸「筒井泉跡」

2024-07-15 | 徳川家康

大乗寺から筒井泉跡へ。



筒井とは、安城城周辺の七つ井(筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、梅ノ井、風呂井)の一つです。



筒井は、中でも名井であったと言われ、安城城の城主がこの水を茶の湯に使ったとされています。



1549年(天文18年)に竹千代(後の徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎へ戻る際、筒井の水を飲み、この水を大変気に入ったので、竹筒に入れて持ち帰ったことが「筒井」の名の由来と言われています。

市指定史跡 筒井泉跡 昭和43年4月1日指定

安城城周辺の台地の縁から水が湧き出す地があり、そのうち筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、 梅ノ井、風呂井の七カ所は「七ツ井」と呼ばれてきました。
天文18年(1549)、竹千代(のちの徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎への帰途、 筒井の水を飲んだと伝わります。その際、この水を大変気に入り竹筒に入れて持ち帰ったため、これが筒井の名前の由来となったとされます。
筒井は17世紀後半の成立とされる「諸国古城之図」「三河安城」にも描かれており、「此井戸ハ筒井ノ水ト云名水ナリ」と記されています。また、安城の城主が茶の湯に用いたといわれています。
現在、筒井の傍らには寛政7年(1795)に大乗寺の要月が建てた「筒井碑」、明治15年(1882)に同じく大乗寺の山口察祐が建てた「甘泉井碑」が残ります。(案内板より)

 

安祥城址公園のすぐ近くにあるので、セットで訪ねると良いでしょう。

 

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安祥城(2)大乗寺

2024-07-03 | 徳川家康

安祥城の城跡は、現在安祥城址公園として整備され、本丸跡には大乗寺があります。

安祥山了雲院大乗寺は、延徳元年、安祥城主・松平親忠が勢誉愚底上人を開山として創建されました。

安祥合戦と享保の火災で荒廃しましたが、安祥城址に移転再建後は城跡のお寺として知られています。

市指定史跡 安祥城址 昭和36年10月1日指定

安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一説には、室町時代の永享年間 (1429~1441)、志貴荘の地頭和田親平によるともいわれます。
江戸時代に記された「三河物語」には、岩津城 (岡崎市)を本拠としていた松平信光が、文明8年 (1476) ころに安城城を奪い取ったとの記述があります。このとき信光は、きらびやかに仕立てた踊りを安城の「西野」で行い、城内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされます。その後、信光は子の親忠(西忠)を城主にすえました(安城松平初代)。
親忠は子どもたちを分家に出して勢力を広げ、2代の長忠(長親・道閲)の時代には、安城松平家が一族の総領家としての地位を固めます。3代の信忠を経て、4代の清康(徳川家康の祖父)は13歳で家督を継ぎ、本拠地を岡崎に移しました。そして、ほぼ全ての三河地方を松平氏の支配下に置くことに成功します。しかし、この清康は、家臣の誤解によって、天文4年(1535)に25歳で殺害されてしまいました。
天文9年(1540) には、尾張の織田信秀(信長の父) が安城城を攻め取り、三河地方への前線基地としました。この戦いを含め、天文18年(1549)に織田信広 (信長の義兄)と織田氏に捕らえられていた竹千代 (後の家康)が、「西野」で人質交換が行われるまで、約10年間、3度にわたり安城合戦(安城城争奪戦) がくり広げられました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、安城城は廃城になったとされていました。しかし、近年の研究では、天正12年 (1584)の小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢によって、当時の新しい縄張りの設計による改修が加えられたとも考えられています。
了雲院大乗寺が現在の場所に建つのは、江戸時代の寛政4年(1792)以降のことになります。

安城市教育委員会

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