日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

2024-01-01 | 史跡

 

平安京大内裏の蘭林坊があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。

聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地

このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだった内裏跡にあたります。
なかでも当地は、陽明文庫蔵「内裏図」により、蘭林坊跡と考えられています。
蘭林坊とは、天皇一代の大イベント大嘗祭などに使用される品物の保管場所です。
昭和49年(1974)、平安博物館の行った発掘調査によって、蘭林坊の築地に関わる溝のような痕跡がみつかっています。
その後、火災などにより内裏は別の場所に営まれ、この地は荒野になりました。
内裏跡ですので「内野」とよばれました。
天皇への遠慮(タブー)があったようで、ながくここに住居などが建てられることはありませんでした。
この地の再利用に着手したのは、豊臣秀吉でした。
ながい戦国時代をおわらせ、天下統一の実現が求められていました。
秀吉は関白となり、天皇の伝統的権威をかりての政権構想をもちます。
そのため本拠は、大坂ではなく京都に定まりました。
それが内野に建設された城郭、聚楽城です。
聚楽城はながく正確な位置が不明でした。
が、森島康雄さんや百瀬正恒さん、馬瀬智光さんたちの考古学的研究により、全貌が明らかになりつつあります。
聚楽城の周囲には全国の大名の屋敷がいとなまれました。
安芸広島浅野家旧蔵の「諸国古城之図」の聚楽城図には具体的な人物の名前が記されています。
馬瀬智光さんの復元図によって推定すれば、当地には秀吉の姉の子(甥)で、養子でもあった豊臣秀勝(丹波少将)の邸宅があったといえそうです。
豊臣秀勝の妻は、淀殿(浅井茶々)の末妹・江です。
ふたりは天正13年10月18日(1585年12月9日)結婚し(「兼見卿記」同年同月20日条)娘をさずかりました(完子。誕生年不明)。
この一家の住居こそ当地であった可能性があります。
天正20年9月9日(文禄元年、1592年10月14日)、不幸にも秀勝は、出兵中に朝鮮で急死します。
その後、江は徳川秀忠と再婚しますが、完子は同行しませんでした。
豊臣家の大事な娘ですので、おそらく秀吉が禁じたと思われます。
秀吉の死後も生母(江)と暮らすことはなく、淀殿の猶子として大坂城で養育され、慶長9年6月3日(1604年6月29日)、豊臣家から五摂家の九条忠栄(幸家、のち関白)に嫁ぎます(「慶長日件録」)。
完子は多く子を産み、その子孫は公家社会の維持に寄与しました。
近代に入り子孫のひとり九条節子は、嘉仁親王(のち大正天皇)に嫁ぎ、裕仁親王(のち昭和天皇)を生みます。
豊臣家の血統は、完子を通じて現在の皇室にも及んでいるようです。
当地は現代にも通ずる日本史の重要な舞台地のひとつといえましょう。
ゆえに標石を建て顕彰いたすものです。

歴史地理史学者
中村武生

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小野小町双紙洗水遺跡

2023-11-25 | 史跡

一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。

一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。

かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)

正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。

かつてこの地で、小野小町大伴黒主との歌合せが行われました。


狩野探幽『三十六歌仙額』


対戦相手の大友黒主は、小町相手には勝ち目がないと思い、前日小町の邸に忍び込んで、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きします。


そして、小町が歌を記した草紙に加筆し、『万葉集』を盗作したように見せかけました。
しかし、小町が庭の井戸水で草子を洗うと、後から書き加えた歌の文字が流れ消えたといいます。

小町が草紙を洗った井戸がこの辺りというので、「小町通」と名づけられ、昭和初期までは井戸も残っていたといいます。

 

Wikipediaによると

草子洗小町』は、能の演目の一つで、三番目物、現在鬘物、大小物に分類される。歌合を舞台に小野小町が、大伴黒主の奸策を機知によって退ける様を描く。


大伴黒主(ワキ)は、歌合で小野小町(シテ)を相手にすることとなった。しかしとても勝ち目がないと考えた黒主は、歌合の前日、小町の邸に忍び込み、小町が明日のために詠んだ歌を盗み聞きする。

歌合当日、紀貫之(ツレ)を初め歌人たちが居並ぶ中で小町の歌が詠み上げられるが、黒主は「その歌は既存の古歌である」と難ずる。証拠として黒主が取り出した『万葉集』の草子には、確かにその歌が書き込まれていた。前日小町の歌を盗み聞いた黒主が、予め書き足しておいたのである。

窮地に立たされる小町だが、黒主の入れ筆と見破り、許しを得て水を以ってその草子を洗う。するとたちまち黒主の書き足した歌は消え失せ、彼の悪事が明らかとなる。全てが露見した黒主は自害しようとするが、小町はそれをとりなして、祝言の舞を舞う。

 
 
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数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

2023-11-16 | 史跡

京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻り橋は、数々の残酷な歴史の舞台にとなってきました。

戦国時代には、細川晴元により三好長慶の家臣・和田新五郎が鋸挽きにされました。

和田 新五郎(わだ しんごろう、生年不明 - 天文13年8月11日(1544年8月29日))は、戦国時代の武士。三好長慶の被官。

新五郎は室町幕府12代将軍である足利義晴の嫡男・足利菊童丸の侍女と「不義密通」していたことを咎められ、天文13年(1544年)、一条戻橋で「鋸引き」の刑で処刑された。最初の鋸で両腕を切り落とされ、その後頸を斬り落とされたという。

山科言継曰く、「前代未聞」の残忍な処刑方法だったという。また侍女の方も洛中を裸体で引き廻された後六条河原で処刑された。

処刑は足利義晴及び細川晴元による主導で行われた。この事件は長慶の面目を丸潰しにしたと言われ、晴元と長慶の関係悪化を助長したと考えられる。(Wikipediaより)


安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首され、また秀吉のキリスト教禁教令のもと、1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、京都の市中を引き回され、堀川にかかる一条戻橋で、耳削ぎの刑を受けました。

秀吉は両耳と鼻をを落とすようにと指示しましたが、キリシタンに理解があった石田三成の取りなしによって、左の耳だけにとどめられといわれます。

大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された際も、三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたのですが、果たせなかったそうです。



1597年1月10日、長崎で処刑されることになった一行は、歩いて長崎へ向かうことになりました。そして、道中でイエズス会員の世話のために付き添っていたペトロ助四郎、フランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも自らの意志で捕まり、6人の外国人、日本人キリシタン20人、合わせて26人の聖人が弾圧されました。



一条戻橋には、こんな伝説も残されています。



「戻橋」という名前の由来については『撰集抄』巻七で、延喜18年(918年)12月に漢学者三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。

『平家物語』剣巻には次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる。

戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。(Wikipediaより)

 
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聚楽城 加藤清正邸跡

2023-11-06 | 史跡

京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城 加藤清正邸の案内板があります。

Googleマップで、偶然見つけました。 

豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第において加藤清正の屋敷があったとされる場所です。

「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同 14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同 16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記 ) 。同 19年 12月関白を養子秀次 (→豊臣秀次 ) に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4 (95) 年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された。その殿舎の多くは伏見城へ移された。大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられる。桃山文化の代表的建築物である。

(コトバンクより)


 当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたります。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされます。
 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地です。
応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦いました。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡しました。以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅しました。
 羽柴(豊臣)政権には、秀吉・秀次の聚楽城からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設されました。当地付近は、西隣地「主計町」の地名によって加藤主計守清正邸跡と伝承されます。尼崎本「洛中洛外図」には、正親町小路「現中立売通」と思われる道路(図の一条戻り橋は誤りか)と堀川の交点東入ルの北側に「加藤主計殿」とあり、その傍証といえます。
 徳川時代には、少なくとも文久3年(1863)以前筑前黒田福岡屋敷となりました。
 なお当地の向かいは小出伊勢や上行寺、ついで五摂家筆頭の近衛家筆頭邸が建設されました。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地でした。(案内板より)


この案内板によると、数年前に設置されたようですね。

一条戻橋や晴明神社までは何度か訪ねていますが、この通りは初めて通ったので、今まで知りませんでした。
 

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日限地蔵尊(浜松市元城町)

2023-10-11 | 史跡

浜松城向かいの元城町東照宮の鳥居から東へ坂を下ったところに日限地蔵尊が祀られているお堂があります。

日限地蔵(ひぎりじぞう)は日本各地に存在する「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。


この地蔵尊は江戸時代の文 政年間(1818〜1830年)浜松宿田町で呉服屋を営んでいた小野江家に祀られていたものだとされている。現在の場所に移された明治初年から、既に日限 地蔵に対する信仰は広がり、心願成就の仏様として平成の現在でも地域信仰は厚い。太平洋戦争中、浜松市は米軍の焼夷弾や艦砲射撃の戦禍に見舞われたが、不 思議な事に地蔵尊の境内には一発の弾も落ちなかった。このため、境内に避難していた市民は全員助かったといわれている。そうした霊験が人伝えに語り継が れ、元城の日限地蔵の今日を迎えている。

(「Do!はままつ」より)

 
 

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