日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

神田山日輪寺

2013-09-30 | 平将門

浅草に神田山日輪寺という将門ゆかりの寺院があります。









 日輪寺

                              台東区西浅草3丁目15番6号
 
 神田山柴崎道場日輪寺という。創建は一説に9世紀、武蔵国豊島郡柴崎村(現千代田区大手町)に天台宗の了円法師が開基したと伝えられる。柴崎村には天慶の乱で天慶3年(940年)に戦死した平将門の墳墓が築かれたが、のちに荒廃して、将門の亡霊が村民を悩ますようになった。嘉元年中(1303~6)、時宗二祖他阿真教上人が村民の求めにより丁重に供養して亡霊を鎮め、その霊魂を神田明神に祀った。村には平和がたちまち戻り、上人は村民たちに請われて日輪寺を時宗の念仏道場に改めたという。江戸時代の神田明神祭礼では、日輪寺の僧侶が読経してから神輿を出す例となっていた。
 日輪寺は天正18年(1590年)徳川家康の江戸入城以後、江戸の都市整備や災害復興などにともない、何度か所在地を変えている。現在地に移転した年代は二説あり、慶長8年(1603年)という説と明暦3年(1657年)江戸大火の後という説がある。
 明治2年から昭和40年まで、この付近の町名を柴崎町といったが、その町名は日輪寺に由来している。
                                   台東区教育委員会





真教上人直筆の将門鎮魂碑「南阿弥陀仏」



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京都の神田明神

2013-09-26 | 平将門
一昨年、祇園祭で京都に行った際、山鉾を見学しながら、京都の神田明神を探し歩いてみました。

京都の神田明神は、四条通新町西入下ル新釜座町にあります。



2月14日といえば世間一般では、バレンタインデーですが、平将門公の命日でもあり、マイバースデ

ーでもあります。

何か将門さまとの縁のようなものを勝手に感じ、将門公の史跡を巡っています。

地図を持って行ったのですが、見つからず、近くの人に尋ねてやっとわかりました。

細い小路の間にあるわかりにくい場所にあります。

この地に将門公の首が晒され、空也上人が手厚く葬ったと伝えられています。





築土神社が祀られた頃、当時“市聖”とあがめられていた高僧の空也上人は京の都において、将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養したという。いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、細い路地に位置することから“膏薬の辻子(こうやくのずし)”として地名になったと伝わっている。明治2年に南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、現在の町名(新釜座町)に変えられるまではこの名で呼ばれていた。江戸時代の地誌類にはいくつかに掲げられている。『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載されている。 『拾遺都名所図会~巻一~』においても「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれている。 明治に入ってからの、『京都日出新聞』では将門の首塚を発見したという記事が載ったが、大正初年の『京都坊目誌』には将門との縁を否定する文が残されている。(Wikipediaより)
















史跡というよりも、ちょっとしたギャラリーのような雰囲気でした

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竹生島の唐門は極楽橋?

2013-09-22 | 史跡
琵琶湖・竹生島の唐門、大坂城の極楽橋か

 大坂夏の陣(1615年)で焼失した豊臣期大坂城の唯一の建物遺構ではないかと近年、琵琶湖・竹生ちくぶ島(滋賀県長浜市)の宝厳ほうごん寺の唐門(国宝、桃山時代)が、専門家の注目を集めている。オーストリアで7年前に見つかった豊臣期大坂城の屏風絵に描かれた「極楽橋」と似ているためだ。昨年、唐門を調査した関西大・大阪都市遺産研究センターの高橋隆博教授も「極楽橋だった可能性が高い」とみている。
 極楽橋は豊臣秀吉が1596年に、本丸北側に架けたと、当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスが書簡に記し、〈黄金で輝く高貴な橋〉と評している。
 だが、秀吉没後の1600年、秀吉をまつる豊国廟びょう(京都市東山区)に移築、巨大な門になったことが当時の文献に記される。さらに豊国廟の社僧の日記には、1602年に「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述がある。北川央・大阪城天守閣研究主幹は、極楽橋が門に姿を変え、豊国廟を経て、竹生島に移った可能性があるとみていた。
(2013年9月18日 読売新聞より)


記事全文はコチラ

竹生島の宝厳寺は、2010年に参拝したことがあるので、その時の記事を抜粋します。

宝厳寺の観音堂


観音堂は、慶長8年(1603)、豊臣秀頼が秀吉の遺命により、片桐旦元を普請奉行として、京都東山の豊国廟から移築寄進されたとするものです。

宝厳寺の唐門


観音堂の入り口にあたる国宝の唐門は、檜皮葺きで、前後に唐破風を持ち、極彩色の彫刻や飾金具が施され、豪華絢爛な桃山様式の代表的遺構といえます。

観音堂から都久夫須麻神社本殿に続く渡廊は、秀吉の日本丸と名付けられた御座船の材を利用したものとされ、舟廊下とよばれています。

舟廊下


唐門が大阪城の移行なのか・・・さらなる調査に期待しています!

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烏森神社

2013-09-18 | 平将門
東京のJR新橋駅から2分ほどのところにある烏森神社



天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願した際、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えました。

その矢を持って行ったところ、速やかに乱を鎮めることができたので、お礼に稲荷神社を創建しようと考えていた時、夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げしました。



桜田村の森に来た所、烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが当社の始まりであるといいます。









境内には心願色みくじというのがあります。



願い事により色が決まるそうです。





例大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われているそうです。





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水稲荷神社

2013-09-15 | 平将門
新宿西早稲田にある水稲荷神社は、将門調伏に関わる神社です。



天慶四年(941年)俵藤太秀郷朝臣が、旧社地の富塚の上に稲荷大神を勧請し、古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれました。



江戸中期、境内の大椋に霊水が湧き評判を呼んだことが、神社名の由来の一つであるそうで、眼病のほか水商売および消防の神様としても有名です。



天明8年(1788年)の京都の皇居火災の際、こちらのお稲荷様が消火に努め、天皇から関東稲荷惣領職を賜ったという伝説が残されており、その稲荷神の神託によって、源経基は、将門を滅ぼしたと伝えられています。



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