日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鎧の渡し跡

2013-08-27 | 平将門
兜神社からほど近いところにある鎧橋鎧の渡し跡







東京・兜町の東京証券取引所のふもとにある鎧橋日本橋川に架かっている橋の一つで、現在の橋は、昭和32年に架けられました。川の上に高速道路が走っていて、橋は川と高速道路の間にあります。
今はそんな風景ですが、昔は下総方面への渡し場になっていたそうで、源義家が東征の際、ここに来た時、急な暴風雨で渡しが使えなくなりました。すると義家は、着ていた鎧を脱いで龍神に祈ったところ、暴風雨が静かになり、無事に渡ることができたといわれています。そのことからこの渡しは、鎧の渡しと呼ばれるようになりました。

また、ここにも平将門の伝説が残り、将門自身が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。



鎧(よろい)の渡し跡

所在地 中央区日本橋小網町八・九番~日本橋茅場町一丁目・日本橋兜町一番

鎧の渡しは、江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で、明治五年(一八七二)に鎧橋が架けられるまで存続しました。
伝説によると、平安の昔、源頼義が奥州討伐の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれます。一説には平将門が兜(かぶと)と鎧を納めたところとも伝えられています。
「江戸名所図絵」や安藤広重の「名所江戸百景」には、渡しの図が描かれ、また、この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。
縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも
     逆さにうつる 鎧のわたし
              和朝亭 国盛
                            平成六年三月
                                  中央区教育委員会






鎧 橋

 鎧橋が最初に架かったのは明治五年、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたとの前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。
 その後、明治二十一年には銅製のプラットトラス橋に架けられ替えられました。
 その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」にこんな風に書いています。
「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・
 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・
 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景がのように日本離れした空気をただよわせている」
 現在の橋は昭和三十二年七月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。橋の外側に間隔を置いて突き出て鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。(説明板より)


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筑土八幡神社

2013-08-21 | 平将門
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)は、東京都新宿区筑土八幡町にある神社です。





当社の西側には、津久戸明神という将門公を祀る神社がありましたが、戦災により焼失し、 昭和21年(1946)千代田区富士見へ、さらに昭和29年(1954)九段中坂へ移り、筑土神社となっています。この津久戸明神は、平将門の首を祀った神社であると伝えられています。
また、筑土八幡神社にも将門が合祀されているとい説もあります。



筑土八幡神社由来
 
 昔、嵯峨天皇の御世(809~823)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現れて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。
 その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(1469~1486)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年(1945)の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年(1963)氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。

御祭神 応神天皇・神功皇后・仲哀天皇

大祭 九月十五日



宮比神社由来
 
 御祭神は宮比神で大宮売命・天鈿女命ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十年(1907)に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年(1962)に再建したものである。(筑土八幡神社HPより)

庚申塔






 
 寛文四年(1664)に奉納された舟形(光背型)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折ってるのに対し、左側の雌猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
(筑土八幡神社HPより)

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兜神社

2013-08-15 | 平将門
東京証券取引所の北側、日本橋川のほとり、 江戸橋ジャンクションの下に兜神社があります。ビルの合間にひっそりと建っていますが、商業の神様として有名な神社です。

兜神社は、東京株式取引所(現在の東京証券取引所)が設立に伴い、明治11年(1878)取引所関係者の鎮守として造営されました。



兜神社世話人会の方によってまとめられた「兜神社」の由来という冊子をいただいて来たので抜粋します。

江戸時代

1845年、「楓川鎧渡古跡考」の地図に、鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源ともいわれている)と兜塚が描かれており、当地の鎮守として、また魚河岸に出入りする漁民により信仰を集めていた。

明治4年

東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧神社と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷された。この時、株戸塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は、鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。

明治7年

お祀りする祭神に変更があって、祭神・源義家公の祭祀を廃止して、新たに三井家(兜町一丁目の土地を所有する地主)の信仰していた三囲稲荷神社の境内摂社である福神社より、大国主命と事代主命のご分霊を勧請して合祀した。

明治十一年

東京証券取引所の設立に伴い、当取引所が兜神社の氏子総代となり、以来証券界からの信仰を集めるようになる。

昭和二年

日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の六十二の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。

昭和四十六年

高速道路の建設に伴い、旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造、向拝付きの社殿を造営し現在に至っている。



とこのような経緯があったそうです。
歴史の流れを感じますね。

境内の兜岩は、前九年の役(1050年)に源義家が東征の際、この岩に願を懸けて戦勝を祈願したと伝えられ、日本橋兜町の由来ともなっているそうです。

兜岩


そして、一説に、俵藤太が平将門の兜を埋めた地ともいわれています。

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鎧神社

2013-08-08 | 平将門
東京都新宿区北新宿3丁目にある鎧神社



当社には鎧にまつわる話があります。
創建以前、日本武尊東征の際、その甲冑を埋めたのが、当社のはじめといわれています。

天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。

また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったと言われます。 それを聞いた人々はその御神徳に恐れ畏み、以後、村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけてきたと伝えています。 これらのことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられています。(鎧神社HPより)





天神社の両脇にある狛犬は、全国的にも非常に珍しい狛犬型庚申塔。
造営は享保6年(1721)で、向かって右側が阿形像(雄)、左側は叫形像(雌)。







摂社 天神社

学問の神様・菅原道真をお祀りする摂社です。 



鎧神社縁起

祭神

日本武命 大己貴命 少彦名命 平将門公縁起、氏子地
 
 当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事よリ社名起ると伝えている。天慶三年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという、別説によれば将門軍残党を追つて此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒リ也と怖れ、薬師如未を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子弛は北新宿全域と西新宿一部 (案内板より)

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