日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

掛川の平将門十九首塚(3)将門橋

2013-10-26 | 平将門
十九首塚の東側には、将門橋と名のついた橋があります。



藤原秀郷たちが、将門たちの首を川で洗って橋にかけたことから「将門橋」という名がついたのでしょう。



橋を歩いてみましたが、人が歩いて渡るくらいの狭い幅の橋です。





将門橋からの眺め



東光寺南側の下俣川は、首を洗ったことから血洗川と呼ばれましたそうです。

「血」とか「首」という字がつくと、おどろおどろしい感じがしますね(^_^;)



今でも町に残る十九首という地名。

これも単なる伝説のひとつなのでしょうか?

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掛川の平将門十九首塚(2)十九首塚

2013-10-18 | 平将門
東光寺の本堂左側から奥に進むと、墓地があり、向かい側の整備された公園に、十九首塚があります。



昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のものと思われる大きな1基だけが残されたといわれています。その後、将門の首塚を取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されました。地元では首塚を町の守り神として、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。(掛川市観光情報サイトより)

旧十九首塚


この十九首塚がある十九首町は、地元の人からは「じゅうくしょ」と呼ばれるそうで、町の名前になっています。現在の東光寺南側の下俣川という小川で首を洗ったといわれ、血洗川と呼ばれました。そして川に架かる橋に首をかけて首実験を行ったことから、「懸川」→「掛川」という地名になったとする説があります。



十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首待ち)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。 平成14年3月

将門公とともに供養されている武将




相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高

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掛川の平将門十九首塚(1)東光寺と成田山

2013-10-13 | 平将門
今まで東京の平将門の史跡を巡って来ましたが、私の地元から車で約1時間のところにも、将門ゆかりの史跡があることを知って出かけて来ました。

静岡県掛川市の東光寺にある十九首塚を紹介します。

天慶3年2月14日、平将門を滅ぼした藤原秀郷は、将門、家臣19人の首級を持って京に上る途中、京からの検視役と掛川で出会いました。
秀郷は、小川で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、「将門は、逆臣とはいえ、名門の出である。その屍に鞭打つことはしてはならない。」と言い、 十九人の首を別々に埋葬して、丁寧に供養しました。

東光寺の山門


石碑に成田山遥拝所の文字が見えます。





東光寺は、明治10年に成田山心勝寺より不動尊を勧請して祀り、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可されたそうです。

東光寺と成田山の由来

1.醫王山東光寺
当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました。その後、兵火により焼失いたしておりますが、慶応3年(1867年)玉澗観嶺大和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っております。

2.成田山(不動明王尊)
東光寺本堂の東側に続いて建てられてある御堂です。将門に関係のある十九首町に於いても当山鎮守として不動尊を祀ろうと明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。大正14年8月、堂を増築して別格大本山成田山新勝寺より遠州唯一の遙拝所として認可され、毎月28日を縁日と定め厄除不動尊として信仰を集めています。不動明王は大日如来の化身にて一切の悪魔を隆伏するために忿怒身を現しています。

○家内安全○厄除守護○交通安全○商売繁盛 平成14年3月

本堂


東光寺成田山不動堂


本堂左手より、将門十九首塚へと進みます。

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鳥越(とりごえ)神社

2013-10-04 | 平将門
久し振りに平将門公についての記事です。
東京の台東区鳥越にある鳥越神社を紹介します。







鳥越(とりごえ)神社

当神社は、白雉二年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。
社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046〜52)、奥州の阿 倍貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ鳥が超えるの を見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付けた。以後、神社名に鳥 越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった、天児屋根命は、武蔵の国司に なった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現・蔵前 四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。
由緒書きにはありませんが、こちらの神社も平将門にゆかりのある神社であるという説があります。
将門の首が飛び越していった⇒飛び越え⇒鳥越と転じて、鳥越という地名になり、また神社の名となったとか、将門の遺体は江戸の各地にばらばらに埋葬され、当社には手が祀られているという説があります。





下町のまちしるべ



旧浅草鳥越二丁目

本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(651)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(1046-1053)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。

拝殿



祖霊舎



志志岐神社





志志岐神社

御祭神 豊玉姫命
例祭日 五月十五日
御由緒 当社は、その本社対馬国下懸郡久田村にあり、往昔より安産を守る神として崇められる。
御祭神豊玉姫命は、海神の鸕鷀(うがや)の翼を用い草として葺けるに未だ葺き合えざる安産し給うに依りて、御子鸕鷀葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と申奉る。此の故事により対馬國人本社を安産の神として崇め奉るに依りて、藩主宗対馬守、寛永年間にその邸内社を現在の台東区一丁目二番辺りに勧請し、屋敷の守護神となし、安産の神として緒人に参拝せしめられたり。産婦社域内の御石を頂き安産を祈り、お礼に御石を納め箒を納める風習あり。
平成十三年鳥越神社鎮座1350年を法祝し、其の社を境内末社として鎮め祀る



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神田山日輪寺

2013-09-30 | 平将門

浅草に神田山日輪寺という将門ゆかりの寺院があります。









 日輪寺

                              台東区西浅草3丁目15番6号
 
 神田山柴崎道場日輪寺という。創建は一説に9世紀、武蔵国豊島郡柴崎村(現千代田区大手町)に天台宗の了円法師が開基したと伝えられる。柴崎村には天慶の乱で天慶3年(940年)に戦死した平将門の墳墓が築かれたが、のちに荒廃して、将門の亡霊が村民を悩ますようになった。嘉元年中(1303~6)、時宗二祖他阿真教上人が村民の求めにより丁重に供養して亡霊を鎮め、その霊魂を神田明神に祀った。村には平和がたちまち戻り、上人は村民たちに請われて日輪寺を時宗の念仏道場に改めたという。江戸時代の神田明神祭礼では、日輪寺の僧侶が読経してから神輿を出す例となっていた。
 日輪寺は天正18年(1590年)徳川家康の江戸入城以後、江戸の都市整備や災害復興などにともない、何度か所在地を変えている。現在地に移転した年代は二説あり、慶長8年(1603年)という説と明暦3年(1657年)江戸大火の後という説がある。
 明治2年から昭和40年まで、この付近の町名を柴崎町といったが、その町名は日輪寺に由来している。
                                   台東区教育委員会





真教上人直筆の将門鎮魂碑「南阿弥陀仏」



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