日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

豊臣秀吉妙顕寺城跡

2012-09-08 | 豊臣秀吉
押小路通の西福寺門前、閑院址の隣にあります。







この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。
したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。
豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。
現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。
(案内板より)

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秀吉が奉公した松下屋敷

2011-10-13 | 豊臣秀吉
浜松市頭陀寺町に、少年時代の秀吉が奉公したという松下屋跡があります。



その頃、秀吉は14歳。遠州頭陀寺城城主である松下源左衛門、嘉兵衛之綱のもとで奉公し、出世しましたが、流れ者がゆえに他の家臣から疎まれ、やむなく屋敷を後にすることになります。

平成13年、松下屋敷の一部を発掘したところ、約450年前の館跡が見つかり、その中に当時の硯が発見されました。
写真でもわかると思いますが、墨の真ん中がずいぶんへこんでいます。



(写真「広報はままつ」HPより)


頭陀寺町の「鎌研池」には秀吉に関する次のような話が伝わっています。

当時、この池で鎌を研ぎ、その切れ味を試そうとした藤吉郎は、辺りの葦の葉を切り落としたために、今もその池の葦の葉は片葉になっているといいます。

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名古屋の常泉寺

2011-10-10 | 豊臣秀吉
中村公園の豊国神社から東に約100m、妙行寺のすぐ北側にあるのが、加藤清正一族の円住院日誦上人によって秀吉をまつるために創建された太閤山・常泉寺です。

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境内には「秀吉手植えの柊」のほか、「秀吉産湯の井戸」、秀吉の像があります。

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しかし、常泉寺のあるところが秀吉出生地ではないという説もあります。
秀吉の父・木下弥右衛門の死後、母は築阿弥と再婚しましたが、秀吉は築阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て、遠州の松下家に入ったとされています。(「太閤記」では築阿弥を秀吉の実父としている)
この地に築阿弥の屋敷があり、そこに秀吉がいたため、秀吉誕生地と間違って伝わったのではないかというのです。

遠州・松下家の記事は後日掲載する予定です。

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