日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

景清爪形観音

2015-03-26 | 史跡
景清爪形観音は、清水寺の随求堂の前に立つ石灯籠の火袋の中にある小観音像です。



三重塔の裏側に当たります。



景清は、平氏の侍大将で平景清とも呼ばれていますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいい、「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であったそうです。
大河ドラマ「平清盛」では、伊藤景清の名が使われていましたね。

景清は、壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれていますが、異説もあります。

景清爪形観音に伝わるのは、景清は、源頼朝の命を狙って、清水寺に潜んでましたが、失敗し捕えられ、「源氏の世は見られぬ」と自らの目玉を刳り抜き清水寺に納めたという伝説です。
また、景清は、謡曲や歌舞伎、浄瑠璃にも登場します。





この悪七兵衛観音は、景清が爪で刻んだと伝えられています。

細長い穴が二つ開いていて、中に小さな石仏が納められているそうですが、覗いても見えませんでした。


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金剛寺(八坂庚申堂)

2015-03-20 | 仏閣
八坂の塔に向かう坂の途中に金剛寺があります。



通称は八坂庚申堂



東京・浅草寺、大阪・四天王寺ともに日本三庚申のひとつとされています。

庚申とは、庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、この夜に人間の体の中にいる三尸8さんし)の虫が、寝ている間に体から脱け出して、帝釈天にその人の悪行を告げ口に行き、悪いことをした人に罰として寿命を縮めるといわれるています。三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申日は、徹夜をし、これを庚申待ちといいます。

また、この日、睡眠をささげて、一晩一心に願い続ければ如何なる願いも叶うとされている。

お堂には、いくつもぶらさがっているのがくくり猿といい、お猿さんが手足をくくられて、動けない姿を表しています。本能のまま行動する猿の姿を、人間の中にある欲望に喩え、その欲望が動かないようにくくられています。くくり猿に願い事を託してそれを叶える秘訣は、欲をひとつ我慢するということなのだそうです。



また、病気平癒のコンニャク封じも有名で、庚申御縁日は、厄除けコンニャク焚きの接待を行っており、猿形に抜いたコンニャクを3個、北を向いて無言で食べれば、無病息災と伝えられています。



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金攫八幡宮(きんかく はちまんぐう)

2015-03-14 | 神社
衣笠のわら天神(敷地神社)と平野神社の間に、金攫八幡宮があります。



平野神社に桜を見に行った帰り、鳥居の前の桜につられて覗いてみました。





 当、八幡宮は小北山(おぎたやま)八幡宮とも呼ばれ、約320年前貞享二年卯年正月(1685年)山城国石清水八幡宮より御分霊、この地山城国葛野郡衣笠村字小北山の産土神として大神を崇敬信仰する人々が加護を受け今日に至っています。
 祭神は応神天皇で仲哀天皇の皇子、御母は神功皇后であります。
御在世の御名を大鞆別尊と申し一に誉田別尊とも胎中天皇とも称せられます。
天皇の御神徳は我国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められ殊に御長寿なるを以て延寿(えんじゅ)の大神として 厚く崇敬されています。
 奉遷より社頭の附近は田圃の間に金賞の人家が散在する状態でありましたが今日では住所も京都市北区平野桜木町となり京都の西北の一角で人々に親しまれる八幡宮として存在しています。
 また、境内東側の大きな木は「小金モチ」の木です。 秋から冬には赤い実を湛えお参りの皆様をお迎えしています。
 本殿は昭和四十二年秋に改修され、それまでの檜皮葺屋根から銅葺屋根に改め現在に至っています。
(駒札より)

境内に足を踏み入れようとした瞬間、待っていたバスが来てしまったため、画像はここまで・・・

またの機会に参拝してみます。

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崇徳天皇廟

2015-03-07 | 史跡
祇園歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。



崇徳天皇は、保元の乱に敗れ、讃岐に流されて、無念の死を遂げました。

ここは、崇徳天皇の寵妃・阿波内侍の住んでいた所で、天皇の御遺髪を請い受けて、この場所に一塚を築き、
上皇の霊を慰めしたとされています。







崇徳上皇(七十五代)は、平安時代の末、保元の乱(1156年)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。 上皇は、血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くにならず憤怒の御姿のまま、長寛2年(1164年)夏、46歳にて崩御。 五色台白峰山の御陵に奉葬された。 上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪をを請い受けて、この場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。 その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の場所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。 なお、孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社をして尊崇され今日に至っている。(案内板より)


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