日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鞆の浦の寺社・史跡めぐり(15)太田家住宅

2015-11-26 | 史跡
鞆の浦の太田家住宅は、元は福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元「中村家」の屋敷で、明治時代に太田家の所有となりました。瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物で、1991年に国の重要文化財指定を受けました。






建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、見事に保存されています。
これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承されています。

1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。
「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛を極めました。

1863年8月23日、都落ちした尊王攘夷派の公卿・三条実美ら7人が、長州に下る途中、鞆の浦に寄港し、この太田家住宅(旧保命酒屋)の主屋と朝宗亭を宿泊所としました。






中に入ると、案内の方が建物について説明をしてくれ、最後に三条実美が宿泊した部屋に案内されます。

本来は、館内の撮影はNGなのですが、
今回の旅の目的がまさにこの部屋を見るためだったこと、また各地の七卿落ちの史跡を訪ねてきたことを話すと、
特別に数枚のみ部屋の写真撮影の許可をいただきました。

三条実美らが宿泊した部屋




公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。



世にならす 鞆の港の竹の葉を かくて誉むるも めづらしの世や



 三条実美の歌で、保命酒を”竹の葉”と表現しています。激動の時代にあって、世に名高い保命酒を、ゆったりと味わえるこの時を、特別な思いで詠んだものと思われます。
 尊王攘夷を唱える三条実美ら七卿は、1863(文久3)年8月18日の政変後、公武合体派によって長州藩とともに京都を追われ、8月22日午後4時頃、兵庫の港から長州に向けて出航します。実美の総督船を1番船とし、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、壬生基修(みぶもとのぶ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)の2番船、東久世通禧(ひがしくせみちとみ)、沢宣嘉(さわのぶよし)の3番船など20数隻、総勢4百余人の大船団でした。
 鞆ノ津には、23日午後8時頃錨をおろしました。「土方久元講話」には、「下船し上陸、すぐさま出航するよう催促するが、折から風雨穏やかならず、船頭どもは容易に承知しない。血気の士はやにわ刀を抜き船頭どもを脅迫した」とあり、その結果「同夜半、強風をおして出航した」と記されています。幕末の緊迫した空気が伝わってくるようです。その後、沢宣嘉は生野の変に加わり、錦小路頼徳は病死します。
 五卿が再び鞆ノ津に立ち寄ったのは、京へ上る途中の翌1864(元治元)年7月18日でした。19日と20日には保命酒屋中村家(現大田家住宅)で憩い、20日の午後多度津へ向けて出航しました。実美らの保命酒賛歌は、この時詠まれたものと思われます。 ところが、21日に多度津へ入港するや、7月19日の蛤御門の変の悲報に接し、22日早朝に鞆ノ津へ集結、再度長州へ下ることになります。
こうした歴史的経過により、1940(昭和15)年2月23日に広島県史跡に指定されました。

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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(14)龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅

2015-11-19 | 建築物

江戸時代より廻船問屋を営んでいた桝屋は、1867(慶応3)年4月23日夜、坂本龍馬が率いる海援隊が乗った「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」とが瀬戸内海六島沖で衝突し、「いろは丸」が大破、宇治島沖で沈没した「いろは丸事件」の際、龍馬はじめ海援隊が紀州藩との談判交渉をした数日間、滞在した商家です。
桝屋清右衛門は、事件の際に海援隊を支援し、宿舎として提供しました。





当時、命を狙われていた龍馬は「才谷梅太郎」という名前で桝屋に宿泊し、屋根裏の隠し部屋に身を潜めていました。





坂本龍馬が実際に寝泊まりした屋根裏の隠し部屋を見学できるのですが、この日は木曜日。「火・水・木が休業日」ということで、残念ながら見られませんでした(;O;)



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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(13)医王寺

2015-11-12 | 仏閣
さて、鞆の浦の高台に位置する医王寺へ向かいます。



坂道と階段がきついと聞いていた医王寺への参道



たしかにきつい!

でも、その先には絶景が待っていました!







鞆の浦で2番目に古い医王寺は、826年(天長3)に空海によって開基されたと伝えられています。

その後、火災で焼失していますが、慶長年間(1600年頃)に福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄藩がこれを再興しました。



御影堂


本堂


本堂は1685年(貞享2年)4代・水野勝種の再建したものと伝えられています。





1826年オランダの医師シーボルトはツツジや松の観察のため、小径を登りました


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鞆の浦の寺社・史跡めぐり(12)明圓寺

2015-11-04 | 仏閣

明圓寺は、天文年間(1532~1554年)沼隈郡山田村に創建され、その後、文明年間に現在地に移転したとされています。



室町末期の石山合戦では、明圓寺の住職・長存が備後門徒を集め、毛利軍と共に織田信長と戦い、これらの功績により、「松江山明圓寺」の寺号を教如上人から授けられました。



その後は東本願寺設立にも尽力しました。



(それで、東本願寺の瓦があったのですね)

当寺も江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でした。

鐘楼堂


明圓寺の梵鐘は、鞆奉行・萩野新右衛門らの寄進によって寛永21年(1644)年に作られました。この時代に作られた鐘は、江戸末期と第二次大戦時の二度の金属供出でほとんどが失われ、鞆の浦でも残っているのは当寺と阿彌陀寺の二箇所だけで、朝鮮鐘の形式が取り入れられた江戸初期の貴重な鐘なのだそうです。

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