日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

安祥城(1)安祥城址公園

2024-06-24 | 

愛知県安城市の安祥城(あんじょうじょう)は、永享12年(1440)、畠山一族の和田親平が築城したといわれ、別名を森城といい、天守を持たない平山城でした。



文明年間、松平信光が本拠地として以来、岡崎に移るまで徳川四代の居城となりました。

現在城跡は安祥城址公園として整備され、本丸跡に大乗寺、二の丸跡に八幡社、周囲に堀や土塁などが残っています。



愛知県安城市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。三河国碧海郡(あおみのこおり)周辺(現愛知県碧海(へきかい)郡)を支配していた和田親平が1440年(永享12)に築城したとされる。その後、1471年(文明3)に、岩津城(岡崎市)の松平信光(のぶみつ)が謀略を用いて無血落城させ、以後4代にわたって松平氏の居城となった。この4代を安祥松平氏という。安祥松平氏4代の松平清康(きよやす)(徳川家康の祖父)は岡崎城(岡崎市)を攻略したが、そのまま安祥城を本城とし、清康の子の松平広忠(家康の父)の代に居城を岡崎城に移した。1540年(天文9)、古渡城(名古屋市)の織田信秀(織田信長の父)が安祥城を攻撃して落城させ、城代として織田信広を置いた。以後、織田氏と松平氏・今川氏との間で城をめぐる攻防(安城合戦)が繰り広げられた。この戦いで、劣勢に立った松平広忠は今川義元に救援を求めたが、その際、人質として竹千代(徳川家康)を要求され、以後、三河松平氏は今川氏の傘下に組み込まれることになったほか、安祥城も今川氏により攻略された。今川義元が戦死した桶狭間の戦い後、松平元康(のちの徳川家康)は今川氏から独立し、織田信長との間に清洲同盟を結んだ。これにより、織田氏から岡崎城を守る防衛拠点としての安祥城の価値が薄らいだこともあって、1562年(永禄5)ごろに廃城となった。その後、豊臣秀吉と徳川家康との間に起こった小牧・長久手の戦いの際、徳川方は安祥城跡に兵を置いた記録がある。現在、城跡の一部は安祥城址公園として整備されていて、園内には曲輪(くるわ)、土塁、堀跡が残っている。また、同公園に隣接した、かつての城域に安城市歴史博物館がある。名鉄西尾線南安城駅から徒歩約15分。森城ともよばれる。
(コトバンクより)



ここに松潤が来た時の画像が!

ここに自転車を止めたのでしょうね(^0^;)

 
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豊田市の挙母城(七州城)

2023-10-24 | 

愛知県豊田市小坂本町付近にあった「拳母城」(ころもじょう)は、江戸時代の1782年(天明2年)に築城されました。

三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの国が望めることから七州城とも(しちしゅうじょう)とも呼ばれました。

こ拳母城には天守閣はなく、藩主が居住する御殿を中心に、侍屋敷などが設置され、1787年(天明7年)には拳母藩の藩校「崇化館」(そうかかん)が設立されました。

明治時代に廃城となりましたが、1978年(昭和53年)には、絵図をもとに隅櫓が復元され、隅櫓に隣接して「又日亭」(ゆうじつてい)という書院と茶室が設けられました。

現在は本丸跡が豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されており、櫓台の石垣が残っています。

又日亭

挙母城の起源となった金谷城は、鎌倉時代の1309年に中條景長によってが築かれました。
戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、徳川氏の支配下に入ります。

江戸時代初期の1604年に、徳川家康に仕えていた「三宅康貞」(みやけやすさだ)が1万石で入封。康貞は城の破損が著しいことから、金谷城から1キロメートルほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから桜城と呼ばれました。

寛延2年(1749年)、内藤政苗が城の改修を計画し着手しましたが、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、桜城から高さ65メートルほどの丘である童子山に移し、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、「七州城」と呼ばれるようになりました。

豊安院殿お手植えの栂の木

土塁跡

 

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岡崎めぐり(10)岡崎城 その弐

2019-07-10 | 

天守閣は、2階から4階までが江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっています。




5階は展望室となっており、三河平野を一望することができます。




家康はいつも、この天守閣から北に見える徳川家菩提寺の大樹寺を拝したといわれています。



木々の間に大樹寺がちらっと見えます。










龍城神社


岡崎城の跡地に鎮座する龍城神社(たつきじんじゃ)は、東照宮の一つです。
三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたので、以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという伝承があります。

1543年(天文12年)岡崎城で、家康が誕生した際にも金色の龍が現れたといいます。

1624年~1643年(寛永年間)家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀りました。

後に本多忠勝を合祀し、大正三年県社に昇格、神饌幣帛料供進神社に指定され、岡崎市の中心神社として崇敬されました。

三河武士のやかた



三河武士の源流から家康の祖松平氏の歴史と家康の75年の一生をテーマ別にし、時代順に展示しています。

忠勝が愛用した槍・天下三名槍と呼ばれた槍の1つ、蜻蛉切のレプリカがこちらに展示されています。

 

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岡崎めぐり(9)岡崎城 その壱

2019-07-03 | 

岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、松平元康のちの徳川家康の生地です。

元康は、岡崎城内の坂谷邸で生まれましたが、6歳で故郷を離れ、織田家、そして今川家の人質として少年期を過ごしました。

岡崎城の別名は「龍城」。

1452年(享徳元年)または1455年(康正元年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。

1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。

1542年(天文11年)城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。

存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となりました。

現在は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、岡崎公園として整備され、天守などが復興され、市民の憩いの場になっています。










からくり時計




ここには、さまざまな家康の銅像があるのですよ。

威厳たっぷりの像



騎馬像


出生ベンチの像



家康の子供の頃の竹千代の像


そしてあの有名なしかみ像


 

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石田三成ゆかりの地(2)佐和山一夜城

2018-10-09 | 
石田三成の居城だった佐和山城を再現した「佐和山一夜城石造」が、彦根市古沢町の佐和山ふもとにある佐和山会館の敷地内に設置されています。
 
 
  
2012年彦根商工会議所青年部の創立30周年記念事業により、彦根市の石材店が、地元の寺に残っていた古図などを参考に制作したそうです。
 
 
 
 
 
 
平成19年に開かれた彦根城築城400年祭の時に、同祭実行委員長だった北村昌造・彦根商工会議所会頭の提案で、高宮町の田中家石材(田中寿信・代表取締役)が佐和山一夜城の製作に取りかかった。
 佐和山城の天守には三層説と五層説があるが、西明寺所蔵の絵馬「石田三成居城佐和山城之図」や龍潭寺(古沢町)所蔵の屏風絵にある五層天守をモデルに、京都の建築デザイン学校の生徒らが図面を作成。その後、田中家石材が仕事の合い間を縫って製作に入り、黒御影(みかげ)石や白御影石などを使って平成22年1月に完成させた。高さ約2・1㍍、土台の底が1・7㍍四方。天守の内部にライトを配し、日没後は窓から灯りが漏れるようになっている。
 同会議所青年部の創立30周年を記念し、同会議所が購入。佐和山会館前に設置した。
(2012年2月5日 滋賀彦根新聞記事より)
 
 
彦根城より佐和山を望む
 
 

 

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