日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

赤坂の弁慶橋

2014-06-03 | 地名の由来
東京メトロの赤坂見附駅で下車し、駅の周辺を散策してみました。

赤坂見附交差点北側に面した濠は、江戸時代に江戸城警護のために作られた外堀の一つで、弁慶橋は、清水谷・紀尾井町方面への近道として(明治22年)1889年に架けられました。



橋の名前の由来は、江戸城普請の大工の名棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋であることによるといいます。



武蔵坊弁慶とは関係ありません(^_^;)



弁慶橋ができるまでは、清水谷公園前の道は人通りも少なくさびしい道で、それまで遠く迂回して行き来していた両側の住民は大変喜んだそうです。

現在の弁慶橋は、昭和60年(1985)11月に改架した、長さ44.75m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。

ここ弁慶橋にはボート場もあり、釣りも楽しめます。

弁慶濠は河川の流入がなく、水源は雨水と井戸水なのですって。



向こうには、ホテルニューオータニが見えます。


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目黒の行人坂

2012-03-18 | 地名の由来
目黒駅西口より左側の横断歩道を渡ると右方にくだる急な坂があります。



この坂が行人坂で、坂の途中に大円寺があります。

行人坂の名の由来は、大円寺を拠点とする修験道の行者がこの坂を往来したことによるそうです。
江戸市中から目黒不動尊への参詣路であり、参詣が盛んになるにつれ、道筋に町並みができたり、坂の途中に富士見茶屋がつくられたりしたそうです。



以下、目黒区HPから抜粋

行人(ぎょうにん)坂は、下目黒1丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。
「江戸名所図会」には「目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」とある。
行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。

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沼八幡宮

2012-03-09 | 地名の由来
浜北駅から徒歩数分のところにある沼八幡宮





沼八幡宮は、徳川家康の家臣で戦功のあった太田沼之助が、隠居して家康に与えられたlの土地を開墾し、1586(天正14)年、京都の岩清水八幡宮から御霊分けをしてこの場所に鎮座した神社です。

「沼」と名がつく神社は初めて聞いたのですが、この沼八幡宮は、沼之助自身の名前から「沼新田村」とつけたのが由来だそうです。

名前に「沼」がつくのも珍しいと思いますが(^_^;)

そもそも沼之助は、浜松城下に住み、彼の屋敷に通ずる小路は「沼殿小路」と呼ばれていたそうです。

その小路の名は、飯尾豊前守連龍が曳馬城主だった頃、家老の江馬安芸守泰顕の屋敷の脇道が、江馬殿小路、沼殿小路と呼ばれていたとか・・・






境内には春の訪れが(*^。^*)







神社の名前の由来からいろんなことを知りました。

そうそう、沼八幡宮というのは、山口県にもあるそうですね。

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小豆餅と銭取

2011-11-08 | 地名の由来
小豆餅と銭取

浜松には、徳川家康と武田信玄との三方原合戦ゆかりのお菓子があります。

御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。

「あおい」の小豆餅銭取の由来によると

「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。
その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。
何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ余り追いかけ、とうとう家康から銭を取ったとのことです。
この時、餅を食べたところを「小豆餅」銭を取ったところを「銭取」という地名になったと言われ、浜松の一角に小豆餅、銭取として遠州バスの上り、下りのバス停として残っています。」

Wikipediaによると

「徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べたことする伝説に由来する。
このエピソードにはさらに続きがある。家康が小豆餅を食べている時に武田軍が追ってきたため、家康は代金を払わずに馬に乗って逃げた。しかし茶屋の老婆が走って家康を追いかけ、やっと追いついて家康に代金を支払わせた。この老婆が家康に追いついたところが「銭取」という地名として残った。現在は町名としては存在せず、遠州鉄道の路線バスのバス停(気賀三ヶ日線ほか40番台系統。行政地名としては中区和合町)として残っているのみである。
この逸話は後世の創作で、実際には三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を備える習慣が続いたことが地名の由来である。『浜松風土記』には慶長年間のこととして、浜松城主堀尾忠氏の弟高階晴久が三方ヶ原に立ち寄り茶店で小豆餅を食べたところ、次々と奇怪な出来事が起こったので慌てて店を飛び出し、町まで逃げ帰った。翌日、晴久は多数の供をつれて昨日の場所に行くと、うら寂しい大野原に三方ヶ原の戦いの戦死者の白骨が散乱していたので、掻き集めて焚いて埋め、小豆餅を供えて大念仏で法事を営んだことが由来であるとの記述がある。また同様に、銭取はこの辺りに山賊がよく現れたことに由来する(山賊に銭を取られるため)。三方ヶ原の戦いがあった時期、三方原台地に民家まして茶屋などは存在しなかったが、当時の家康の必死の逃亡をよく表現した伝説として、長く地元の人々に親しまれてきた。」

浜松出世祭りの際、久しぶりに小豆餅と銭取を買ってみました。

小豆餅は黒砂糖やもろこしが入った餅生地で北海道産の大粒小豆の餡を包み、きなこをまぶした大福

IMG_4344 B

銭取は小判型の和風マドレーヌ

IMG_4342 B

家康になった気分で食べてみました。
どちらも程よい甘さで、ついつい二つ目に手を伸ばしてしまいそうです

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