日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

八百屋お七の墓

2013-10-29 | 八百屋お七
現在、NHK木曜時代劇「あさきゆめみし ~八百屋お七異聞」で、お七の物語を題材に、ジェームス三木が脚本を手がけています。

お七の放火事件については諸説ありますが、このドラマでは、お七が吉三郎を救うために自ら罪人となるという設定で描かれています。

ヒロイン・お七には、前田敦子さん、大乗寺の寺小姓・吉三郎を池松壮亮くん。

あっちゃんは、NHKドラマ初主演、時代劇初主演なのだそうですね。

そして池松くんといえば、2005年の「義経」での頼朝の少年役のイメージが強いのですが、いつの間にか大きくなったのですね(^_^;)

そこで、一昨年訪ねた東京・白山のお七の墓を紹介します。


都バスで団子坂下から白山へ。

白山上から坂を下りて白山下まで行くと八百屋お七の墓への案内板が見えてきます。

そして、お墓の入り口に石碑があります。



お墓はまだその先です。

八百屋於七地蔵尊



指ヶ谷についての説明



この辺りは、昔「指ヶ谷町」と呼ばれていて現在の「白山は」、旧小石川区指ヶ谷町、白山前町などを合わせた新しい地名で、白山神社に由来しているそうです。

八百屋お七

お七は天和2年12月28日(西暦1683年1月25日)の大火(天和の大火)で檀那寺に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあり)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。お七はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。 甲斐庄は評定の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった。(Wikipediaより)

路地を曲がると、圓乗寺の入り口があり、その手前にお七のお墓があります。





三つ並んでいるうち、左は町内会の有志が建立した供養塔。
真ん中が、鈴ヶ森で処刑された当時の住職が建てたお墓(供養塔)。
右が、歌舞伎役者・岩井半四郎(五世)が建てた供養塔です。



私がお参りした後に、団体客がガイドさんに連れられてやって来ました。

文京区の名所になっているのですね。

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掛川の平将門十九首塚(3)将門橋

2013-10-26 | 平将門
十九首塚の東側には、将門橋と名のついた橋があります。



藤原秀郷たちが、将門たちの首を川で洗って橋にかけたことから「将門橋」という名がついたのでしょう。



橋を歩いてみましたが、人が歩いて渡るくらいの狭い幅の橋です。





将門橋からの眺め



東光寺南側の下俣川は、首を洗ったことから血洗川と呼ばれましたそうです。

「血」とか「首」という字がつくと、おどろおどろしい感じがしますね(^_^;)



今でも町に残る十九首という地名。

これも単なる伝説のひとつなのでしょうか?

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掛川の平将門十九首塚(2)十九首塚

2013-10-18 | 平将門
東光寺の本堂左側から奥に進むと、墓地があり、向かい側の整備された公園に、十九首塚があります。



昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のものと思われる大きな1基だけが残されたといわれています。その後、将門の首塚を取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されました。地元では首塚を町の守り神として、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。(掛川市観光情報サイトより)

旧十九首塚


この十九首塚がある十九首町は、地元の人からは「じゅうくしょ」と呼ばれるそうで、町の名前になっています。現在の東光寺南側の下俣川という小川で首を洗ったといわれ、血洗川と呼ばれました。そして川に架かる橋に首をかけて首実験を行ったことから、「懸川」→「掛川」という地名になったとする説があります。



十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首待ち)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。 平成14年3月

将門公とともに供養されている武将




相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高

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掛川の平将門十九首塚(1)東光寺と成田山

2013-10-13 | 平将門
今まで東京の平将門の史跡を巡って来ましたが、私の地元から車で約1時間のところにも、将門ゆかりの史跡があることを知って出かけて来ました。

静岡県掛川市の東光寺にある十九首塚を紹介します。

天慶3年2月14日、平将門を滅ぼした藤原秀郷は、将門、家臣19人の首級を持って京に上る途中、京からの検視役と掛川で出会いました。
秀郷は、小川で将門たちの首を洗って橋にかけ、検視を受けました。朝廷の使者は、検視が済むと首を捨てるよう命じましたが、 秀郷は、「将門は、逆臣とはいえ、名門の出である。その屍に鞭打つことはしてはならない。」と言い、 十九人の首を別々に埋葬して、丁寧に供養しました。

東光寺の山門


石碑に成田山遥拝所の文字が見えます。





東光寺は、明治10年に成田山心勝寺より不動尊を勧請して祀り、大正時代に遠州で唯一の遙拝所として認可されたそうです。

東光寺と成田山の由来

1.醫王山東光寺
当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました。その後、兵火により焼失いたしておりますが、慶応3年(1867年)玉澗観嶺大和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っております。

2.成田山(不動明王尊)
東光寺本堂の東側に続いて建てられてある御堂です。将門に関係のある十九首町に於いても当山鎮守として不動尊を祀ろうと明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。大正14年8月、堂を増築して別格大本山成田山新勝寺より遠州唯一の遙拝所として認可され、毎月28日を縁日と定め厄除不動尊として信仰を集めています。不動明王は大日如来の化身にて一切の悪魔を隆伏するために忿怒身を現しています。

○家内安全○厄除守護○交通安全○商売繁盛 平成14年3月

本堂


東光寺成田山不動堂


本堂左手より、将門十九首塚へと進みます。

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忍者屋敷の窓

2013-10-08 | 建築物
当ブログの「甲賀忍者屋敷」の記事に使用した画像が、日本経済新聞電子版窓クラブSeason6というサイトの「忍びの窓」に掲載されました(#^.^#)

からくり窓


中二階天井


甲賀忍者屋敷の記事

http://blog.goo.ne.jp/shizuyashizu/e/5df9798c9a2ea83983091b077218151e

「一つの窓を通じてかつて窓を覗いていた人間になりきる」という趣旨の企画だそうで、窓がテーマになっています。

大変面白いサイトなので、ぜひご覧ください!

↓ ↓ ↓

窓クラブ season6

http://ps.nikkei.co.jp/YKKAP/narikiri/vol1/01.html

season5

http://www.ykkap.co.jp/life/index.asp

日本家屋において、窓は重要な役目をしていますね。
竪穴式住居の時代には天井部に採光用と排煙用の開口部があり、庇が設けられ、雨は吹き込まないようになっていた。

その後、日本家屋の技術が発達して障子のような紙を使った採光用の窓が利用される。
洋風建築が導入されるようになった文明開化当初から昭和中期ごろまでは、様式の窓は窓枠やガラス板を支える枠組みは木製のものがほとんどだったが、工業の近代化にも伴って鉄の窓枠が、更にはアルミを中心とした金属製(サッシ)が多くなっている。さらに、平成に入ると、住宅の全ての窓に網戸が設置されるのが通例となってきている。(Wikipediaより)

そして開閉方法、配置、機能による分類で、呼び方も様々。
押し上げ窓、両開き窓、出窓、天窓、脱出窓・・・

窓といえば、有名なのが京都市北区鷹峯の源光庵

丸窓は、悟りの窓
「禅と円通」の心を表わし、円は大宇宙を表現する



角窓は、迷いの窓
「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表わしている



いずれも仏教の真理を表わしています。

窓の形ひとつにおいても奥深いものなのですね。

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