日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

和歌山城(2)

2017-06-27 | 
和歌山城の本丸跡へ進んでいきます。










本丸御殿跡


本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていきました。
初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定め、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも呼ばれました。
1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭がありましたが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築されました。




天守





浅野家が虎伏山の西の峰に天守閣を築造。

三層の大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守でした。

寛政10年(1798)十代藩主徳川治宝により白壁の白亜の天守となりますが、弘化3年(1846)の落雷で焼失。
御三家ということで特別に認められ、嘉永3 年( 1 8 5 0 )に再建されました。

昭和1 0 年(1935)国宝に指定されましたが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。
市民からの要望もあり、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されました。










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和歌山城(1)

2017-06-20 | 
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀し、本丸の北側に二の丸、その外に大きく三の丸が配された梯郭式平山城です。


天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりで、その築城を担当したのが、藤堂高虎でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。
元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となりました。

一の橋・大手門


浅野・徳川時代を通して和歌山城の表門であった一の橋南詰に建つ大手門。



明治42年(1909)に自然倒壊しましたが、昭和58年(1983)一の橋とともに再建工事により復元されました。










伏虎像


江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれました。
これは、和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたためと言われています。
この像は、和歌山城の別名にちなんで、昭和三十四年に作られました。
(現在の像は二代目にあたり、初代の像は銅製であった為、第二次大戦中、供出させました。)



和歌山城の石垣

和歌山城の石垣から時代の移り変わりを感じることができます。
二の丸庭園前には創建期と思われる「野面積み」の石垣。
大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた「打ち込みハギ」、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込みハギ」の石垣があります。
また、石垣には紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われており、転用石や、豊臣・浅野時代の刻印を見ることができます。














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鷺森別院と雑賀孫市の血槍洗いの手水鉢

2017-06-11 | 仏閣

本願寺鷺森別院は、和歌山市鷺ノ森にある浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の西本願寺の別院です。



天正8年から11年(1580年から1583年)には織田信長との和睦によって大坂の石山本願寺から退去した宗主顕如が当寺に滞在し、浄土真宗の本拠地として位置づけられていた。
しかし、その後、豊臣秀吉の紀州征伐によって急速に衰退し、江戸時代には紀州門徒の支援によって、明和5年(1768年)に再興したが、第二次世界大戦には和歌山大空襲によって焼失した。現在の建物は1948年(昭和23年)に再建、その後改築されたものである。(Wikipediaより)





専光寺の境内にある手水鉢。





鷺森合戦の際、雑賀孫市が血の付いた槍を洗ったという伝説のある手水鉢なのだそうです。

雑賀孫一(鈴木孫市)


石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。その後、豊臣秀吉に鉄砲大将として仕え、関ヶ原の戦い(伏見城の戦い)では西軍本隊に属して、鳥居元忠を討ち取る活躍を見せる。戦後、浪人を経て水戸藩に仕官した。(Wikipediaより)

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和歌浦天満宮(和歌山)

2017-06-01 | 神社
和歌浦天満宮には、学問の神様・菅原道真が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。







ここまで来て、雨があまりにも強く、この急な階段を上がって行くのを断念しました。

楼門


慶長10年(1605年)の建立。入母屋造、本瓦葺き。
一間楼門として最大規模。


※本殿や末社・多賀神社本殿の画像は、Wikipediaよりお借りしました。


本殿


国重要文化財。 慶長11年(1606年)の建立。紀伊藩主・浅野幸長によって再興されたもの。入母屋造、檜皮葺き。
蟇股には動物や草花の彫刻、内外部ともに美しい極彩色が施されています。
本殿、楼門などの建築や彫刻には、紀州根来出身の平内吉政・政信親子が関わりました。後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になっています。(和歌浦天満宮公式サイト参照)

末社・多賀神社本殿


延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。その後、村上天皇の康保年間(964 - 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられるという。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されている。
全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7年(1621年)、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
社殿は、豊臣秀吉の天正13年(1585年)の兵火の後、桑山重晴、浅野幸長により再建された。浅野幸長は、慶長9年(1604年)〜同11年(1606年)にかけて天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建したが、これが現存する天満神社である。本殿奥や楼門前面の石垣も、この時造られたものである。再建された本殿、楼門など4棟が重要文化財に指定されている。本殿は桁行五間・梁間二間の入母屋造で、装飾性の豊かな桃山建築である。正面の楼門は一間一戸門としては最大級で、禅宗様を取り入れている。本殿、楼門等の建築や彫刻には、江戸幕府御大工棟梁の平内政信(へいのうちまさのぶ)が関わった。(Wikipediaより)

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