日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

2023-12-12 | 

鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、 1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。

日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。

寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。

1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。


山門をくぐると本堂が見えて来ます。

 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。
 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く、寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。
 明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。
 本堂正面の日蓮坐像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。


その本堂の右側に、「駿河大納言 徳川忠長公 供養塔」があります。

駿河大納言 徳川忠長公 供養塔

駿河大納言 徳川忠長公(三代目将軍 徳川家光公 弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃させられ所領も没収された。
悲歎やるかたない奥方松孝院殿(織田信長 次男 信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養のために当供養塔を建立した。

徳川忠長

1606‐33(慶長11‐寛永10)
江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居(ちつきよ),翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された。(コトバンクより)


徳川忠長の供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていたため、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺だったそうです。

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岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

2023-09-16 | 

大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。


西郷頼嗣の墓

初代岡崎城主

次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。
(Wikipediaより)

西郷信貞の墓

4代・岡崎城主

大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。

兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂(七郎右衛門忠茂)の調略によるものとする『三河物語』の記述がある。

岡崎の地を明け渡すと共に娘「於波留」を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。墓所は大林寺(岡崎市魚町1-6)。法名・泰叟昌安禅定門。

これに対して、村岡幹生が何らかの事情(安祥松平家の内紛か?)によって安祥城を離れていた松平清康が昌安の婿養子に迎えられて岡崎城に入ってこれを継承し、後に安祥松平家を継承したとする新説を唱えている。

子は七郎「昌久」とされ(「干城録」巻2)、また娘は上記・清康の正室のほかに水野忠政の正室がいる(「寛政譜」新訂6巻33項)。
(Wikipediaより)

 

そして、赤穂浪士・矢頭右衛門七教兼の墓までありました。

矢頭右衛門七教兼の墓

矢頭教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七(えもしち)。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。

吉良邸討ち入り時は表門隊に属し奮戦。また、討ち入り時には父の腰巻を付け戒名を懐に忍ばせていた。三河岡崎藩・水野忠之の芝中屋敷にお預けとなる。水野家では矢頭ら九人を使ってない長屋にまとめて入れ、外から戸障子などを釘付けにし昼夜見張りに巡回させた。「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」「寒気強く候にて臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と義士に厳しい対応をした記録が残る。酒や煙草・火鉢も禁じた。 元禄16年2月4日に水野家臣・杉源助の介錯で切腹した。享年18。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ芝泉岳寺に葬られた。(Wikipediaより)

後に介錯した源助が当寺に供養塔を建て、菩提を弔ったといいます。


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臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓

2023-08-04 | 

臨済寺の境内墓地の最上段には、今川氏輝や太原雪斎の墓の他、徳川家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓があります。


今川氏輝の墓

今川氏輝
今川氏親の長男,母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼名竜王丸,通称は五郎。大永5(1525)年,元服して氏輝と名乗り,翌年,父の死によって家督を継ぐが,14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り,氏輝の文書発給がみられるのは,それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ,江尻湊の振興をはかる経済政策,検地の施行,さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ,甲斐の武田信虎と戦ったりしているが,同5年3月17日,24歳の若さで突然没した。同日,すぐ下の弟彦五郎も没しており,駿府今川館において何らかの異変が起こった可能性も指摘されている。氏輝が結婚していたかどうかは不明であるが,少なくとも嗣子はなく,氏輝の弟である玄広恵探と梅岳承芳(今川義元)が家督を争う花倉の乱がおきた。(コトバンクより)


太原雪斎の墓

太原雪斎
戦国大名今川義元の軍師。別号雪斎がよく知られている。今川氏の重臣庵原左衛門尉の子。母も今川氏重臣興津氏の娘。9歳ごろ出家,駿河国富士郡善得寺の琴渓舜につき九英承菊と称し,今川氏親の5男梅岳承芳の養育を依頼され,承芳を伴って上洛,建仁寺の常庵竜崇,次いで妙心寺の大休宗休の教えを受けた。妙心寺修行時代,太原崇孚と名を改めている。天文5(1536)年,承芳が今川家の家督を継ぐことになり還俗して義元と名乗るとともに,その補佐役となった。義元の兄氏輝の菩提寺として駿府(静岡県)に臨済寺を建ててその住持となった。今川軍の三河侵攻に当たっては自ら采配をとり,また武田氏・北条氏との講和交渉にも手腕を発揮している。天文19年には勅を奉じて妙心寺第35世に出世し,帰国後は臨済寺のほか,興津の清見寺,富士の善得寺の住持も兼ねた。死後,宝珠護国禅師と諡された。


中村一氏夫妻の墓

中村一氏


通称は孫平次。豊臣秀吉子飼いの家臣のひとりで,天正1(1573)年,近江長浜の内で200石を与えられた。同12年,和泉岸和田城主となり,翌年,従五位下,式部少輔に叙任される。同年,近江・伊賀の内で6万石を与えられ,近江水口城主となる。同18年の小田原攻めのときには山中城攻めに参加し,戦後,駿府城主14万5000石となった。豊臣秀次付きの年寄衆のひとりだったが,秀次失脚事件の連座はまぬかれている。関ケ原の戦には東軍に属したところ,突如発病し死去。子一忠が代わって参陣した。
(コトバンクより)

墓所からの静岡市の眺め

「臨済寺の春の特別公開」の記事は、これで終了します。
最後までお読みいただきありがとうございました。
 

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蒲原の浄瑠璃姫の伝説(3)

2019-11-06 | 

蒲原の新栄六本松公園の北側に、浄瑠璃姫の墓浄瑠璃姫の碑吹き上げの六本松があります。
   








浄瑠璃姫は、義経を追ってここまで来ましたが、力尽きてここ吹き上げの浜で亡くなったといいます。
里人は浄瑠璃姫を哀れんで丁重に葬り、塚の上に目印として松を6本植えたと伝えられています。
 


浄瑠璃姫の碑・吹き上げの六本松

浄瑠璃姫に関する伝説はいくつかあり、そのひとつがここ蒲原町に残っています。
浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河国矢作の浄瑠璃姫が、吹き上げの浜で疲れ果てて亡くなったと記されいます。
天正時代の頃(1580年)に小野於通(おのおつう)という女性によりまとめ上げられた「浄瑠璃十二段草子」という本には、里人によって吹き上げ浜に追われた瀕死の義経が、浄瑠璃姫の涙の雫により甦ったという筋書きになっています。
それに節をつけて語ったものが人気を呼び、「浄瑠璃」という江戸時代の代表的な芸能に発展していきました。
 吹き上げの六本松 吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った里人が姫を哀れんで植えたとも、塚の上に目印として植えられたとも言われています。やがて、大きな木に成長すると東海道を渡る旅人の目印となったと「東海道名所図解」に示されています。
永禄12年(1559年)12月、蒲原城が武田軍により落城した時、この六本松の辺りに本陣を置いて勝ち鬨を挙げたことが「甲陽軍艦」に記されています。 静岡市

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岡崎の浄瑠璃姫伝説(6)岡崎公園の浄瑠璃姫の墓

2019-08-30 | 

国道一号線沿いの岡崎公園大手門に入る手前の左側にも「浄瑠璃姫の墓」が残っています。

 

なぜここにも?
 




岡崎城天守閣の北に、浄瑠璃姫が幽閉されたとというところがあるそうなのです。

そこが現在どこに当たるのかわかりませでしたが。

また、浄瑠璃姫の墓の前には、三河国額田郡生まれの歌舞伎役者「初代市川団蔵の碑」があります。


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