日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

泉岳寺(3) 阿くり(瑤泉院)の墓

2021-12-25 | 仏閣

泉岳寺赤穂義士の墓所に向かいます。

義士墓入口の門

この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。

赤穂藩主・浅野長矩の夫人・阿くり(瑤泉院)の墓

瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。

初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の娘。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。
生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5年9月(1677年10月)に婚約が成立、延宝6年4月9日(1678年5月29日)には婚儀に備えて長矩の屋敷へ移った。天和3年正月(1683年2月)に婚儀が執り行われて同年4月9日(5月5日)に正式に長矩室となった。子には恵まれず元禄8年12月(1696年1月)に長矩の弟浅野長広を養子としていた。
しかし元禄14年3月14日(1701年4月21日)、長矩が江戸城殿中で高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及ぶと、殿中抜刀の罪により即日切腹、赤穂藩は改易となる。阿久里は16日には赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られ、落飾して夫の菩提を弔った。
元赤穂藩家老の大石良雄らが吉良邸討ち入りを決定すると、瑤泉院は自身の化粧料である赤穂の塩田から上がった運上銀を大石に託し、彼らの生活を陰ながら支えた。吉良を討ち取り後幕命により切腹となった赤穂浪士の遺児たちのうち、伊豆大島へ流された吉田伝内・間瀬定八・中村忠三郎・村松政右衛門の赦免運動にも尽力し、宝永3年8月(1706年9月)将軍家綱の二十七回忌の機に前年に病死した間瀬を除く3名の恩赦を実現させた。
正徳4年(1714年)、三次浅野家下屋敷で死去。享年41。夫と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。戒名は瑤泉院殿良瑩正燈大姉。生まれ故郷の三次の鳳源寺に、瑤泉院を供養した五輪の遺髪塔がある。 (Wikipediaより)

 
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泉岳寺(2)

2021-12-14 | 仏閣

梵鐘・鐘楼堂


大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。
また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。







主税梅


大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。



瑤池梅


義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。



血染めの梅、血染めの石


浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。



首洗い井戸


義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。

 
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泉岳寺(1)

2021-12-11 | 仏閣

東京都港区高輪の泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を招いて外桜田(現在の警視庁の近く)に創建されました。

寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、高輪の地で再建されました。

浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので、浅野長矩と赤穂浪士が葬られており、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催されています。

中門


泉岳寺には、三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。
現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。
「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書です。

大石内蔵助吉雄銅像


浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、内蔵助が元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。





山門


この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。

二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれています。



「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書です。







本堂


旧本堂は第二次世界大戦で空襲で消失。現在の本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築です。

ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。



澤木興道老師像




(Wikipedia、泉岳寺HPより)

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犬山の瑞泉寺

2021-12-05 | 仏閣

犬山の瑞泉寺は、信長、秀吉らに崇敬され、尾張徳永家にも庇護された寺です。



山門



犬山城の門を移築したものといわれています。





 

 当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶう ち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一族)に命じ岩頭を うたせたところ、清泉がわき出た。
 禅師はその人の「瑞」をとって瑞泉寺と名付け、泉から立ち昇る水気が太陽に映えて龍が昇天するさまに似ていたので、山号 を「青龍」と決めたと伝えられる。禅師は師の無因宗因を開山に勧請し、自らはへりくだって二世となった。
 禅師は以来十年の歳月をかけて、応永二十二年(1415)に大伽藍を完成させた。本堂には朝態山の虚空蔵菩薩を勧請して本尊とした。日峰禅師は在住14年 子弟の育成に当たったが、折から本山妙心寺は取りつぶしとなっていたために、派中で再興の意欲が高まり、その推挙をうけて本山再興に当たることになった。
 禅師は後事を義天・雲谷・桃隠に託して永享五年(1433)本山へ上った。そして十年間を費してこの大業を成就し、妙心寺中興開山と仰がれるに至ったのである。文安五年(1448)正月二十六日妙心寺養源院で示寂された。
禅師のあとは義天・雲谷・桃隠から雪江・景川・悟渓・特芳・東陽などの高僧に引きつがれ、明治に至るまで四派輪住の寺であった。
 当寺は永禄八年(1565)の兵火で焼失したが、織田信長より朱印状を得て再建、次いで、秀吉が寺領五十石を寄せ、その後、尾張徳川家も当寺を被護した。塔頭は判明するだけでも二十四ヵ院を擁した。現在は龍済・龍泉・臥龍・輝東・臨渓・妙喜の六ヵ寺がある。
 鐘楼は古く室町時代明応三年(1494)建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。山門は犬山城内田御門を移したものである。
(瑞泉寺由緒)











左甚五郎の作と伝えられる鐘楼の三猿







境内からは犬山城が見えます。

※2011年の訪問です。

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