蓮城寺から歩いてすぐの場所に、昭和7年(1932)に建てられた木村重成の銅像があります。
この辺りが、若江の戦いの重成の本陣だったそうです。
若江の戦い
1615年5月6日午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。 木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川手はさらに突進したが戦死した。そこに庵原も加わり激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した。
それまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明を攻めた。宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退した。(Wikipediaより)
他の碑は、このように、なぜか倒れたま置かれていました。
にほんブログ村
神社・仏閣 ブログランキングへ
この辺りが、若江の戦いの重成の本陣だったそうです。
若江の戦い
1615年5月6日午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。 木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川手はさらに突進したが戦死した。そこに庵原も加わり激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した。
それまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明を攻めた。宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退した。(Wikipediaより)
他の碑は、このように、なぜか倒れたま置かれていました。
にほんブログ村
神社・仏閣 ブログランキングへ