日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

殿橋(岡崎市)

2023-08-27 | 

岡崎の中心部を流れる乙川には、3本の橋が架けられています。

上流から明代橋、桜城橋、殿橋の順に設置されています。

中でも、殿橋は、徳川家康ゆかりの岡崎城の上流に位置し、昭和2年(1927)の竣工時から当時の意匠をほぼ残したまま現在に至るまで現役で存在している橋で、御影石造りの大きな親柱が特徴的です。

歴史を遡ると、旧橋は、正保2年(1645)、岡崎藩主・水野忠善が藩主のころ完成しました。

当時は「菅生橋」と呼ばれ、後に「殿橋」と呼ばれるようになり、現在地より100メートルほど下流にあったそうです。



今では、毎年、3~4月に開催される桜まつりや、8月の第一土曜日に開催される「岡崎観光夏まつり花火大会」はこの橋のたもとで行われています。


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小豆坂古戦場跡(岡崎市)

2023-08-14 | 徳川家康

岡崎市戸崎町の小豆坂古戦場跡は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が2度にわたり激戦を繰り広げた舞台です。

永禄7年(1564)には土呂・針崎の三河一向一揆と徳川家康との戦場になりました。

槍立松血洗い池などから当時を偲ぶことができます。

史跡 小豆坂古戦場跡 355平方メートル
徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。
三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂七本槍と呼ばれた。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松と伝えられる。ただし、この天文11年の戦いはなかったという説もある。
これ以降、今川氏との関係を深めた松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)3月、織田信秀は岡崎攻撃の準備をととのえ出陣した。一方、今川義元は広忠救援のため大原雪斎(たいげんせっさい)を大将とする軍勢を送ったため、両軍は小豆坂で出合い合戦におよんだ。この戦いは、松平家臣酒井正親(まさちか)らの活躍により今川・松平連合軍が勝利した。今川・織田両者の争いは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いまで続いた。
桶狭間の戦いの後、独立をはたした徳川家康の最初の難関は一向一揆との対立であった。永禄7年(1564)、土呂(とろ)・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。
小豆坂一帯は数々の合戦の場として、槍立松、血洗池、馬洗池、千人塚など多くの伝承を残したきた。江戸時代から徳川創業史をいろどる出来事として著名で、近代以降も建碑などの顕彰活動が相次いだ。ここに設置してある小豆坂古戦場碑は昭和62年に、槍立松及び血洗池碑は平成5年に、いずれも付近の別のところから移設したものである。
平成11年10月7日指定 岡崎市教育委員会


血洗池


槍立松



 徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川、西の織田両氏にはさまれ、たびたび戦禍に見舞われるところとなりました。三河を統一した松平清康(家康の祖父)は、天文4年(1535)、尾張守山で家臣に殺されました。弱体化した松平氏に対して織田信秀(信長の父)は、安城を起点に矢作川東岸部への進出を図りました。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦いました。
 この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂の七本槍と呼れています。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松だと伝えられています。
 これ以降、今川氏との関係をさらに深くした松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)、織田信秀は岡崎攻撃の準備を整え、一方、今川義元は広忠救護のため軍勢を送り、両軍は再び小豆坂で合戦におよびました。この戦いは松平家臣酒井正親らの活躍により今川松平連合軍優勢の内に展開しました。
 今川-織田両者の争いは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いまで続きました。
 桶狭間の戦い以降、独立を果たした徳川家康の最初の難関は一向一揆との戦いでした。永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康側の勝利により一揆は終息を早めることになりました。
 このようにして小豆坂は、数々の合戦の場として、槍立松、血洗池(ちあらいいけ)、馬洗池など多くの伝承を残していました。 

 岡崎市教育委員会


名鉄「東岡崎駅」より名鉄バス竜美丘経由岡崎駅前行「光ヶ丘」下車徒歩10分


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臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓

2023-08-04 | 

臨済寺の境内墓地の最上段には、今川氏輝や太原雪斎の墓の他、徳川家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓があります。


今川氏輝の墓

今川氏輝
今川氏親の長男,母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼名竜王丸,通称は五郎。大永5(1525)年,元服して氏輝と名乗り,翌年,父の死によって家督を継ぐが,14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り,氏輝の文書発給がみられるのは,それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ,江尻湊の振興をはかる経済政策,検地の施行,さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ,甲斐の武田信虎と戦ったりしているが,同5年3月17日,24歳の若さで突然没した。同日,すぐ下の弟彦五郎も没しており,駿府今川館において何らかの異変が起こった可能性も指摘されている。氏輝が結婚していたかどうかは不明であるが,少なくとも嗣子はなく,氏輝の弟である玄広恵探と梅岳承芳(今川義元)が家督を争う花倉の乱がおきた。(コトバンクより)


太原雪斎の墓

太原雪斎
戦国大名今川義元の軍師。別号雪斎がよく知られている。今川氏の重臣庵原左衛門尉の子。母も今川氏重臣興津氏の娘。9歳ごろ出家,駿河国富士郡善得寺の琴渓舜につき九英承菊と称し,今川氏親の5男梅岳承芳の養育を依頼され,承芳を伴って上洛,建仁寺の常庵竜崇,次いで妙心寺の大休宗休の教えを受けた。妙心寺修行時代,太原崇孚と名を改めている。天文5(1536)年,承芳が今川家の家督を継ぐことになり還俗して義元と名乗るとともに,その補佐役となった。義元の兄氏輝の菩提寺として駿府(静岡県)に臨済寺を建ててその住持となった。今川軍の三河侵攻に当たっては自ら采配をとり,また武田氏・北条氏との講和交渉にも手腕を発揮している。天文19年には勅を奉じて妙心寺第35世に出世し,帰国後は臨済寺のほか,興津の清見寺,富士の善得寺の住持も兼ねた。死後,宝珠護国禅師と諡された。


中村一氏夫妻の墓

中村一氏


通称は孫平次。豊臣秀吉子飼いの家臣のひとりで,天正1(1573)年,近江長浜の内で200石を与えられた。同12年,和泉岸和田城主となり,翌年,従五位下,式部少輔に叙任される。同年,近江・伊賀の内で6万石を与えられ,近江水口城主となる。同18年の小田原攻めのときには山中城攻めに参加し,戦後,駿府城主14万5000石となった。豊臣秀次付きの年寄衆のひとりだったが,秀次失脚事件の連座はまぬかれている。関ケ原の戦には東軍に属したところ,突如発病し死去。子一忠が代わって参陣した。
(コトバンクより)

墓所からの静岡市の眺め

「臨済寺の春の特別公開」の記事は、これで終了します。
最後までお読みいただきありがとうございました。
 

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