日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

岡崎の浄瑠璃姫伝説(3)浄瑠璃ヶ淵跡

2022-05-24 | 浄瑠璃姫

浄瑠璃姫が身を投げたという菅生川沿いの浄瑠璃広場には、浄瑠璃ヶ淵跡の句碑が建っています。





 

浄瑠璃ヶ淵跡

今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。
 承安四年(1174)、浄瑠璃姫十六歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。
 しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去って行ったのです。僅か十数日のはかない夢の日々でした。唯々、義経との再会だけを心の支えに待ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永二年(1183)三月十二日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り「穴観音」としてその霊を弔いました。
 翌年の秋、木曽義仲を討つ旅の途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、「穴観音」も昭和五十六年(1984)の堤防大改修で無くなりました。今となっては、明大寺の町名にこそ往事が偲ばれます。
 なおこの句碑は、昭和三十九年十二月に当時の愛知教育大学教授酒井栄吾先生により、建てられたもので、義経の去った奥州に向けて据えられています。
 句は、同学長内藤卯三郎先生の詠まれたものです。
     
散る花に
       流れもよどむ
         姫ヶ淵
           笈斗山人(おいとさんじん)
 

平成2年3月 岡崎市役所開発部公園緑地課





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岡崎の浄瑠璃姫伝説(2)六所神社

2022-05-12 | 浄瑠璃姫

六所神社は37代・斉明天皇の勅願により、奥州の六所大明神を歓請し創立したと伝えられています。

 

松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く、徳川家康の産土神として江戸幕府の厚い保護を受けました。

楼門は、4代将軍・家綱が寄進したものといわれています。



現在の社殿は寛永11年(1634年)~寛永13年にかけて三代将軍・徳川家光が再建したものです。





   

日光東照宮を思わせる華麗な社殿ですね。


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岡崎の浄瑠璃姫伝説(1)麝香塚(じゃこうづか)石

2022-05-05 | 浄瑠璃姫
愛知県の岡崎には浄瑠璃姫伝説が伝わっています。
 
浄瑠璃姫三河国矢作(やはぎ)地方などの伝説や《浄瑠璃物語》に登場する女主人公。《浄瑠璃物語》によれば,源中納言兼高と妻の遊君矢作の長者とが峰の薬師(鳳来(ほうらい)寺)に申し子をして得た子。14歳のとき,金売吉次の供をして奥州に下る牛若(義経)と契ったとされ,駿河国吹上で病に死んだ義経を姫が蘇生させたとされる。また,三河国笹谷で義経が法華経と歌を回向(えこう)すると姫の墓の五輪塔が砕けて,奇瑞をみせたと伝える。
(コトバンクより)
 
名鉄東岡崎駅近くの六所神社の大鳥居脇にある高宮神社の礎石は、源義経浄瑠璃姫の形見の麝香を埋めたとされる麝香塚に使われていた石と伝わっています。
 
 
 
 

 

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冠者殿社

2022-04-26 | 史跡

京都の冠者殿社は、四条通の八坂神社御旅所の横に建つ八坂神社の境内摂社で、素戔嗚尊の荒魂が祀られています。
また、誓文払い」の社として有名です。
(誓文払いとは、商売上の駆け引きで一年についた嘘の罪を払ってもらうという商店の安売り、すなわちセールのこと。)





一方、源頼朝の命で源義経を襲撃した土佐坊昌俊の霊を祀ったとも伝わっています。

土佐坊は熊野詣のために上京したと偽り、堀川邸を訪ねましたが、義経と弁慶に上洛の目的を怪しまれたため、義経を暗殺する意思はないという旨を誓紙に書いて神に捧げます。

誓文を書いた土佐坊を義経は宿舎に返しました。
その後、土佐坊は堀川館を急襲したものの襲撃に失敗し、土佐坊は捕らえられ、義経の前に引き出されました。

義経は「わが主人の命を重んじて、誓文をしたためてまでこの義経を狙うとは忠義なもの。命が惜しければ鎌倉に返してやる。」と言いましたが、土佐坊は「この命は鎌倉殿に捧げたもの。即刻、首をはねていただきたい。」と答え、土佐坊、息子、郎党の三人が六条河原で首をはねられました。

土佐坊は死に際に「今後は忠義だてのために偽りの誓いをした者を救ってやる」という誓文返しの願をかけ、神になったといわれています。

また、祇園や先斗町の遊女たちは、日頃お客についている嘘を帳消しにするためにお参りしたといいます。
(「義経と平家の京都」参照)


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熊谷直実 鎧掛けの松

2022-04-14 | 仏閣

熊谷 直実は、はじめは平家に仕えていましたが、石橋山の戦いをきっかけに源頼朝に従い、御家人となりました。後に出家して蓮生(れんせい)と名乗ります。

「平家物語」の「敦盛最期」での平敦盛との一騎打ちは、能の「敦盛」をはじめ様々な作品に取り上げられています。

京都の金戒光明寺には熊谷直実ゆかりのものがあります。



熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松







熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、建久4年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。
供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられています。古樹は枯れ、現在の木は二代目です。(案内板より)

「平家物語」によれば

源平の戦いで、直実は、波打ちぎわを逃げようとした平家の平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の若武者だった。
直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」とけなげに答えた。これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。首実検した結果、息子と同じ16歳の平敦盛であったとわかり、世の無常を感じ、出家して法然上人に師事した。


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