日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

竹千代ゆかりの井戸「筒井泉跡」

2024-07-15 | 徳川家康

大乗寺から筒井泉跡へ。



筒井とは、安城城周辺の七つ井(筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、梅ノ井、風呂井)の一つです。



筒井は、中でも名井であったと言われ、安城城の城主がこの水を茶の湯に使ったとされています。



1549年(天文18年)に竹千代(後の徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎へ戻る際、筒井の水を飲み、この水を大変気に入ったので、竹筒に入れて持ち帰ったことが「筒井」の名の由来と言われています。

市指定史跡 筒井泉跡 昭和43年4月1日指定

安城城周辺の台地の縁から水が湧き出す地があり、そのうち筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、 梅ノ井、風呂井の七カ所は「七ツ井」と呼ばれてきました。
天文18年(1549)、竹千代(のちの徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎への帰途、 筒井の水を飲んだと伝わります。その際、この水を大変気に入り竹筒に入れて持ち帰ったため、これが筒井の名前の由来となったとされます。
筒井は17世紀後半の成立とされる「諸国古城之図」「三河安城」にも描かれており、「此井戸ハ筒井ノ水ト云名水ナリ」と記されています。また、安城の城主が茶の湯に用いたといわれています。
現在、筒井の傍らには寛政7年(1795)に大乗寺の要月が建てた「筒井碑」、明治15年(1882)に同じく大乗寺の山口察祐が建てた「甘泉井碑」が残ります。(案内板より)

 

安祥城址公園のすぐ近くにあるので、セットで訪ねると良いでしょう。

 

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安祥城(2)大乗寺

2024-07-03 | 徳川家康

安祥城の城跡は、現在安祥城址公園として整備され、本丸跡には大乗寺があります。

安祥山了雲院大乗寺は、延徳元年、安祥城主・松平親忠が勢誉愚底上人を開山として創建されました。

安祥合戦と享保の火災で荒廃しましたが、安祥城址に移転再建後は城跡のお寺として知られています。

市指定史跡 安祥城址 昭和36年10月1日指定

安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一説には、室町時代の永享年間 (1429~1441)、志貴荘の地頭和田親平によるともいわれます。
江戸時代に記された「三河物語」には、岩津城 (岡崎市)を本拠としていた松平信光が、文明8年 (1476) ころに安城城を奪い取ったとの記述があります。このとき信光は、きらびやかに仕立てた踊りを安城の「西野」で行い、城内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされます。その後、信光は子の親忠(西忠)を城主にすえました(安城松平初代)。
親忠は子どもたちを分家に出して勢力を広げ、2代の長忠(長親・道閲)の時代には、安城松平家が一族の総領家としての地位を固めます。3代の信忠を経て、4代の清康(徳川家康の祖父)は13歳で家督を継ぎ、本拠地を岡崎に移しました。そして、ほぼ全ての三河地方を松平氏の支配下に置くことに成功します。しかし、この清康は、家臣の誤解によって、天文4年(1535)に25歳で殺害されてしまいました。
天文9年(1540) には、尾張の織田信秀(信長の父) が安城城を攻め取り、三河地方への前線基地としました。この戦いを含め、天文18年(1549)に織田信広 (信長の義兄)と織田氏に捕らえられていた竹千代 (後の家康)が、「西野」で人質交換が行われるまで、約10年間、3度にわたり安城合戦(安城城争奪戦) がくり広げられました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、安城城は廃城になったとされていました。しかし、近年の研究では、天正12年 (1584)の小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢によって、当時の新しい縄張りの設計による改修が加えられたとも考えられています。
了雲院大乗寺が現在の場所に建つのは、江戸時代の寛政4年(1792)以降のことになります。

安城市教育委員会

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安祥城(1)安祥城址公園

2024-06-24 | 

愛知県安城市の安祥城(あんじょうじょう)は、永享12年(1440)、畠山一族の和田親平が築城したといわれ、別名を森城といい、天守を持たない平山城でした。



文明年間、松平信光が本拠地として以来、岡崎に移るまで徳川四代の居城となりました。

現在城跡は安祥城址公園として整備され、本丸跡に大乗寺、二の丸跡に八幡社、周囲に堀や土塁などが残っています。



愛知県安城市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。三河国碧海郡(あおみのこおり)周辺(現愛知県碧海(へきかい)郡)を支配していた和田親平が1440年(永享12)に築城したとされる。その後、1471年(文明3)に、岩津城(岡崎市)の松平信光(のぶみつ)が謀略を用いて無血落城させ、以後4代にわたって松平氏の居城となった。この4代を安祥松平氏という。安祥松平氏4代の松平清康(きよやす)(徳川家康の祖父)は岡崎城(岡崎市)を攻略したが、そのまま安祥城を本城とし、清康の子の松平広忠(家康の父)の代に居城を岡崎城に移した。1540年(天文9)、古渡城(名古屋市)の織田信秀(織田信長の父)が安祥城を攻撃して落城させ、城代として織田信広を置いた。以後、織田氏と松平氏・今川氏との間で城をめぐる攻防(安城合戦)が繰り広げられた。この戦いで、劣勢に立った松平広忠は今川義元に救援を求めたが、その際、人質として竹千代(徳川家康)を要求され、以後、三河松平氏は今川氏の傘下に組み込まれることになったほか、安祥城も今川氏により攻略された。今川義元が戦死した桶狭間の戦い後、松平元康(のちの徳川家康)は今川氏から独立し、織田信長との間に清洲同盟を結んだ。これにより、織田氏から岡崎城を守る防衛拠点としての安祥城の価値が薄らいだこともあって、1562年(永禄5)ごろに廃城となった。その後、豊臣秀吉と徳川家康との間に起こった小牧・長久手の戦いの際、徳川方は安祥城跡に兵を置いた記録がある。現在、城跡の一部は安祥城址公園として整備されていて、園内には曲輪(くるわ)、土塁、堀跡が残っている。また、同公園に隣接した、かつての城域に安城市歴史博物館がある。名鉄西尾線南安城駅から徒歩約15分。森城ともよばれる。
(コトバンクより)



ここに松潤が来た時の画像が!

ここに自転車を止めたのでしょうね(^0^;)

 
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焼津市の徳川家康ゆかりの地(6)大井神社

2024-06-11 | 徳川家康

焼津駅の北にある大井神社は、永禄三年(1560)創立と伝わる神社で、左口、白髭、稲荷の三社が合祀されています。

徳川家康が鷹狩りをした際、立ち寄ったといわれています。

焼津駅から歩いても3分ほどのところにあります。

これで焼津の家康ゆかりの史跡めぐりを終え、駅近くの「黒潮」にて食事をしました。

ランチの刺身御膳を注文したら、お刺身は舟盛り出てきました。

これで、税込み2,000円だったと思います。

焼津港で採れた新鮮な海鮮料理が評判だけあって美味しかったですよ~~

ランチタイムの終わり頃に入店したので、スムーズに入れてラッキーでした。

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焼津市の徳川家康ゆかりの地(5)家康が戦勝祈願した旗掛石

2024-05-31 | 徳川家康

静岡県焼津市の石脇浅間神社前に、注連縄をしてある大きな石が二つあります。

徳川家康が、この石に旗を立てたことから、旗掛石と呼ばれています。(家康の時代より、もっと昔から有名であったとも)

石脇の原川新三郎は、天正9年(1581)の頃から家康に従って親交を深めたとされ、天正10年(1582)、家康が武田軍のいる花沢城や田中城を攻めた際、新三郎の家を本陣とし、この旗掛石の神に戦勝を祈願しました。

二年後の戦いでは、家康は新三郎に対して、村の15歳から60歳までの男子一人残らず集めるように命じ、集まった人は千人ほどだったといいます。

その後、天下を統一した家康は、二代将軍に職を譲り、駿府に住みました。

そして、しばしば原川家を訪れ、原川家の門前の大きな石に旗を立てて、その力を示したといいます。

また、家康が馬を繋いでおいた松は「駒つなぎの松」と呼ばれています。

江戸時代には、原川家の屋敷の一方に堀の跡があり、外門から中門を通って家の裏までは五百メートルもあったということからも、かなり大きな敷地を持っていたのでしょう。浅間神社も原川家の屋敷地の一角だったのではないかと考えられています。

石脇浅間神社本殿

旗掛石の脇の小山に祀られたこの神社は、原川家が故郷の遠州原川村(現・掛川市)から勧請したもので、元々は屋敷神でした。
これを石脇の人たちが村の守り神として一緒にお祀りしたいということになり、地域の神社になったそうです。

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