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城と歴史歩きを楽しむ

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三河・城の腰城 作手奥平氏、南西端の城。道路で分断されたが遺構が意外に残る

2019-09-14 | 歴史

城の腰城は愛知県豊川市萩町にあります。
 「奥平氏と額田」(2005 額田町教育委員会)によると作手奥平氏が本拠地の
作手から南西約15kmの三河山間地の丘陵端にある萩の郷へ進出し築いたのが通称「城の腰」と呼ばれる地にあったが、後に北東約1.1kmの「萩城」を築いて移ったとされます。

「城の腰」は、全国各地に見られる名称ですが、音羽町教育委員会刊行の「戦国の城」1999によると萩町の「城の腰」は同じ音で「城の古址」とも書かれたようで、あるいは全国各地にみられる「城の腰」も同様の条件だと「城の古址」だったのかと思わせる記述です。


城の腰城(城の古址) 道路工事により城址が分断された。 城域は畑地として利用されたようである
 
昭和21
年の段階ではすでに城址を削って新道が通されています。城址東側の旧道も確認することができますね。
写真でわかるのは、城址の削平地は畑地として利用されているようで、現在見ることの出来る遺構の地形は、そのことを考慮する必要があるということだと思います。
※米軍空中写真を拡大したので、かなりボケていますが戦後間もない頃の現地の状況の貴重な情報が得られます。


城の腰城(城の古址) 主郭北側の尾根を断ち切る大きな堀切 写真左手上に高土塁と主郭
 丘陵端に築かれた城の腰城の背後を断ち切る1条の大きな堀切がありました。堀切の断面形状を見ると後世の切通し道としても利用されたのではないかと思いますが、付近の状況を見ると、敢えて切通し道に改修する必要があったのか疑問も残ります。


城の腰城(城の古址) 主郭は山陰川と水路で守り、土塁・堀切などのパーツも集中している
 新道で削り取られ、畑地としての改変も加えられていると考えられるので、往時の確実な姿を見ることができませんが、残された地形から想像すると、主郭は背後に高土塁がありその高土塁の外側(北東側)は大きな堀切で守られていたようです。主郭北西側にも土塁があり、下の水路までの高低差を稼いでいます。南西側は高低差のある急角度の切岸で守られていたと思われますが、畑地による改変も考えられる遺構でした。南東側は新道で削られて往時の姿は不明です。
 主郭の南西側の3段に見える削平地も畑地として改変を受けているため往時は何らかの防禦施設が有ったと思われますが、現在は不明です、畑地はその後竹林となり荒れていました。

   
城の腰城(城の古址) 新道で旧地形が削り取られた。旧道は今も確認が可能
 
城址は新道で見事に分断されています。逆に左右がつながっていた旧地形が想像しやすいです。旧道は今も残されていますので、たどることができました。


城の腰城(城の古址) 新道からの登り口に立つ城跡碑
 
新道の道路脇に城址碑が立っていました。ここから遺構へ登る道がありましたが、城址見学のための道ではなく、畑地に登る農道だったようでした。


城の腰城(城の古址) 主郭下の切岸は、ほぼ垂直で高低差が大きい 人物との比較で高さを実感!
 
竹林と雑木で荒れているのではっきり見えませんが、切り立った切岸は、防禦の要害として十分の機能を果たしていたと思われます。畑地としての利用で削った部分もあるかも知れませんが、概ね往時の姿をとどめているのではないかと思いました。


城の腰城(城の古址) 北西側の土塁と法面下の水路
 
主郭も後世に畑地として利用されていたと思われますが北西部分には土塁が残されていました。土塁の内側には堀状の溝がありましたが、畑地の排水等の改変の可能性を考えました。
 土塁上から見ると、水路までは急な斜面で、その先は田が広がっています。水路は最近のものかも知れませんが、往時は谷あいの深田で、侵入の障害になっていた様に思いました。


城の腰城(城の古址) 主郭北側の高土塁 人物との比較で土塁の高さが想像できる
 丘陵端に築かれた城の腰城は尾根状地形を大きな堀切で切り取って防禦の要とし、地山を削り主郭とし、削り残した部分を高土塁とした様に見えました。

新道の東側の分断された城域には現在民家が建っていて、遺構は残されていませんでした。

城の腰城(城の古址)は、コンパクトな城郭ですが主郭周辺部には遺構がよく残っていました。新道によって城址は分断されましたが、そのために旧道がよく残り、城郭の外形がつかめました。