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伊勢・東城(東村城) 伝承の地から新たに発見された土塁の残る方形城館

2019-09-21 | 歴史

東城(東村城)は三重県いなべ市北勢町東村字神崎にあり、近年(2000年ごろ)発見されました。
 発見の経緯は「東村城跡の発掘調査報告 2000.3」によると、以前は東城の北約600mの地点にある遺跡(今村城)が東村城だとされていたので、道路新設の工事に伴い東村城として発掘調査を行ったそうです。ところが遺跡から出た遺物は中世城館よりも古いものばかりで、中世城館とされる東村城の跡ではないかもしれないとなったそうです。
 そのため、一部の地誌に伝承として記されていたのをヒントに付近を調査して発見したのが東城(東村城)ということです。


東城(東村城) 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆  今村城となっているのが以前の東村城
 
舟運で員弁川をのぼってきた交易品は阿下喜(上木)で陸揚げされ、東村を通り治田峠を越える道で近江に運ばれたとされます。以前今村城の場所が東村城とされたのも、近江への道の要衝にあったからかもしれませんね。


東城(東村城)図1 圓福寺の東、字神埼が地誌の伝承の東城  城址には駒井さん宅があるとされる
 伝承の東城は圓福寺の東で、住所も字神埼で「城址(東城跡)内の小高い所に駒井氏宅がある」と記述されているそうですのでこの場所の調査が行われたところ、土塁や堀が見つかり、ここが伝承の東城とわかりました。
 以前の東村城(今村城)は伝承の思い込みで、東城の発見が遅れたように感じます。

ところで、伊藤徳也氏著の「再発見 北伊勢国の城」では、ここを地誌の記述に従って「東城」と呼んでいますので、ここでは東城として進めます。ちなみに「東村城跡の発掘調査報告 2000.3」掲載の東城と今村城の縄張り図の作図は伊藤徳也氏です。


東城 図1の土塁①、土塁②と間を通る堀底道 雑木や雑草で不明瞭
 東城の虎口は南西隅に食い違って開くとされますが、遺構の整備がされているわけではないので、大まかに堀底道が確認できますが虎口部分は不明瞭でした。
堀底道を通って虎口に向かうとすると、北側土塁⑤が図1のように西側にまで回り込んでいたと想像されます。現状の北側土塁⑤はほとんど削られて部分的に残るのみです。


東城 北側土塁⑤ 東端にわずかに土塁が残る

 
東城 東側に残る土塁    土塁③(右側)と土塁④(左側) いかにも虎口のようだが
 土塁の形状からの判断だけでは往時の虎口が有ったとは判断できそうにありません。背後の屋根と比べると、残された土塁の高さが想像できそうです。


東城 削られた東側土塁③を南から見る 土塁の基底部は残されている。
 土塁の基底部の幅は広いものです。往時の姿を想像して書き加えてみましたが、どうでしょう?


東城 昭和23年の航空写真に土塁の切れ目を加筆
 昭和23年頃には土塁が全周に亘り残っていたように見えますね。土塁④も西側に伸びています。「城址(東城跡)内の小高い所にある」駒井氏宅がどこかまではこの写真では残念ながらわかりません。現在は曲輪内にそのような地形はないので、削平されてしまったと思われます。

 写真では土塁の切れ目に向けて曲輪内に道があるようにも見えますので、土塁の切り欠きの一部は土塁を切通して道になっていた可能性がありそうに思えます。

 写真と図1から、南側中央部の土塁の切れ目の南下に四角い地形が見えるように思いますが、ひょっとしたら南虎口からつながる下の曲輪が有ったのかもと想像してみました。見学時にはそこまで気付かなかったので現地の地形の確認をしてありません。

なお
今村城(以前の東村城)の遺構は、東城の出曲輪的なものだった可能性があり、城館遺跡を完全には否定しきれないということで「再発見 北伊勢国の城」では城館の類似遺構とされています。