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遠江・中村城山城 高天神六砦の一つ、今は災害から住民を守る砦として整備

2019-12-06 | 歴史

中村城山城は静岡県掛川市 中 にあります。徳川家康が高天神城を兵糧攻めにした時に取り囲んだ六砦の一つとして有名ですが、その名称は中村城山城、中村城砦、中村城山、中村砦など様々言われているようです。
 掛川市では中村砦と読んで各種資料やホームページで使っていますが地元の城址標柱や看板では中村城砦となっていました。
今回は『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会編1978を資料として出かけました。ちなみにこの資料では「中村城山」となっています。ここではネット情報などで多く見られる中村城山城としました。


中村城山城 往時は海岸線から近く入江が入り込み、付近を流れる河川も蛇行していた
 昭和21年の空中写真でも川の蛇行は見て取れますね。遠州灘の海岸線が近く入江が入り込んでいたそうですので、往時は川の流路もさらに違っていたと思います。中村城山城の南側まで舟がはいったとされ下小笠川の最近開削された現流路あたりは入江が入り込んでいたといわれ舟溜まりの方形の痕跡が上の写真でも確認ができます。


中村城山城 A、B二つのピークがあり尾根でつながっていたが、今は分断された
 若宮神社付近のスペース③に駐車して、まずBのピークの最高所まで登りました。その後②のルートでAへ向かいました。 道路脇のスペースに駐車しましたが、駐車は自己責任で。



中村城山城 東から見るた若宮神社裏手のB。  A、B間の低い尾根は削り取られている
 
Bは地面が見えない状態の笹薮の密集で、遺構があるとしても見えない状態でした。無理やりBの最高所まで藪漕ぎで登ってみましたが、とても「見学」できる状態ではありませんでした。


村城山城  ②の経路でウへ登る途中は最近大きく削られ、道のようになっている。ショッキングな光景です
 ②のルートでAの最高所を目指しましたが、山の斜面は山容が変わるほど最近になって削り取られたらしく道のようになっていました。なんの目的でこのように大きく改変を進めたのか分かりませんでしたが、ショッキングな光景でした。
 

中村城山城 アの尾根をウ側から見る。この先は尾根がだらだら下がりになっている
 削り取られてた尾根を登りきるとウに出ます。ウからはアとイの尾根が分岐していました。中村城山城は高天神城を取り囲む砦群の中でも特異な存在で、数日の普請で築いた包囲軍の兵站地の役割だったとされます。中村城山城の南まで舟が入ったということですからうなずける話だと思います。


中村城山城 イをウ側から見る ここから先も緩やかに下がる尾根になっている
 ア、イとも地元の方の保全活動で見やすくなっていましたが、明確な遺構が見当たりませんでした。写真の左手下にも道状の地形が造られていました。


中村城山城 Aを東下から見る。中央の平坦地と左右の尾根の全体が遺構と言えるかも
 高天神城と中村城山城の間には帝釈山砦、吉長山城山があり中村城山城が高天神城と直接対峙していないので、簡単な普請で尾根に挟まれた海からの輸送に便利な平坦地を確保したのかもしれないと想像しましたが、どうでしょう。
 写真左側のイ下の道状地形も後世の改変に見えますので、往時は平坦地がもっと広かったのではないでしょうか。

中村城山城の東西が道状の地形で大きく改変されていることに疑問があったので、帰宅してからネットであれこれ調べてみました。
 すると、中村砦城山保全会ー掛川市 で検索すると掛川市市民活動推進事業の事業計画書が載っており、その一環で地元保全会の活動として水害、津波に備えて避難道を整備していることがわかりました。
 事業計画書によると中村砦の整備と災害時の避難道の整備の両立という難しい課題に取り組んでいる姿が現在中村城山城で見られるのだということがわかりました。
 中村城山城の遺構は改変を大きく受けていましたが、地域の現在の生活との折り合いの中で残されている部分の見学となりました。


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