根羽女城は長野県上伊那郡根羽村字西山にあります。城主・来歴は不明のようですが、西側の飯田街道を挟んだ根羽城ケ峰と同時代の城と考えられるようです。今回の資料は宮沢 武男先生の「信濃の山城と館 6」2013 などです。なお「信濃の山城と館 」シリーズに掲載されている数多くのカラー城郭鳥観図は、宮武先生から長野県立歴史館に寄贈され、同館の 長野県立歴史館公式HPデジタル歴史館「宮坂武男城郭鳥瞰図」で公開されています。根羽女城のカラー鳥観図も見ることが出来ますので、ぜひご覧ください。 ※長野県立歴史館の公式ホームページは→こちら
根羽女城 飯田街道(153号)を挟んで根羽城ケ峰とセットになっていた
根羽地区は矢作川、小川川や杣路峠を越してきた飯田街道などの分岐点にあり、資料によると、根羽城ケ峰の城主は石原但馬で武田氏に属する下条氏の配下であったとされます。根羽女城も同時代の城郭であろうとされます。※杣路峠は→こちら
根羽女城 A地点付近の道がわかり難い
153号線の根羽村商工会の事務所の西側の狭い通路から小川川の川岸に下り、金比羅橋を渡りました。以前は山上に祀られる金比羅神社への参道が在ったようですが、今はA地点付近がブッシュに覆われて道がわからなくなっていましたので「エィヤッ!」とヤブ漕ぎで進み尾根筋へ取り付きました。
根羽女城 根羽村商工会脇の狭い通路を通って小川川に下り金比羅橋を渡る
根羽村商工会前の153号南側には「根羽村民駐車場」が在りましたのでここに駐車しました。根羽村商工会脇の狭い通路を下り小川川の河原に下り金比羅橋を渡りました。
根羽女城 図2のA地点付近の道はブッシュに埋もれている
季節を選べば、道は見えたかもしれませんが雑草のシーズンでは道が埋もれてわからなくなっていました。小川川の右岸は、以前 水田があったらしく草に埋もれ腐りかかった木道を登ると水路跡がありました。ここからはGPSを頼りに目標の尾根を目指して進むと尾根道に出ました。
根羽女城 資料に描かれた南端部の尾根鞍部①と土橋②
資料によると図3の南東の尾根筋の道が大手道だったとされます。山上に金比羅社や御岳社が祀られてからは、神社の参道として永く使われたようで、踏跡は明瞭でした。
根羽女城 大手道の土橋② 北西から 奥に鞍部⑧
南東尾根の大手道中腹部分には土橋⑧が在りました。尾根の両サイドを削り取ったような狭い道は自然地形の可能性もありそうですが20m程続いていました。「一騎駆」といわれる場合もあるような地形でした。
根羽女城 中心部の概略図 主郭はⅠ郭か
土橋②から平場➂までの間は踏跡が残っていましたが、城郭遺構らしきものは見当たりませんでした。資料によると主郭はⅠ郭とされていましたが、Ⅱ郭の方が高い位置にあり、城域の中心にも見えますので、Ⅱ郭が主郭だった可能性もありそうでした。
根羽女城 平場③を通る大手道a 両サイドに石積跡?
南東尾根の大手道を登ってきて最初に出会う城郭遺構らしき部分です。平場➂は二段の地形となっていて、段の部分の道の両側には、写真の様に石積の跡と見える石がいくつもありました。平場③の道aを通らずに直進で進む道もありましたが後世の参道ではないかと思いました。
根羽女城 腰曲輪Ⅴ郭 東から右上にⅣ郭
大手道は平場➂からⅤ郭へ入っているようでした。Ⅴ郭とⅣ郭の高低差は少なく、切岸の防御的な機能は低そうでした。
根羽女城 Ⅳ郭 南から 削平は甘い
Ⅳ郭は自然地形の尾根に少し手を加えた程度の平場でした。南下のⅥ郭もそうでしたが、城域南側の遺構は守りの緊張感を感じないものでした。
根羽女城 Ⅲ郭下段の平場④ 左にⅢ郭上段 大手道に鳥居が倒れている
Ⅲ郭の下段の平場④は大手道が参道となった姿を示している様に思いました。Ⅲ郭上段は大石だらけで削平等の加工はほとんどされていないようでした。
根羽女城 Ⅱ郭南下の小平場⑤ 奥上に建物が見える 右手の道を登る
大手道は踊り場のような平場⑤を経由してⅡ郭へ登りました。道は参道として利用されていたようで、踏跡がハッキリしていました。
根羽女城 Ⅱ郭 朽ちかけた建物と基壇が残る 現役ではなさそう
資料によるとⅡ郭に祀られているのは金比羅さんということでした。奥の基壇が金毘羅社の基壇跡で建物は倉庫だったのかもしれませんね。山下で小川川を渡る金比羅橋の竣工は昭和42年と表示されていましたので、案外最近まで現役だったのかもしれないと思いました。
根羽女城 平場⑥ 南から
Ⅱ郭の東尾根には二段の平場が在りました。大きな平場が⑥です。東下の支尾根からの侵入に備えたと考えられそうです。
根羽女城 Ⅱ郭から堀切⑫ 土壇⑬を見る 奥にⅠ郭の鳥居が見える
Ⅱ郭の北西尾根には尾根を掘削した浅い堀切⑫があり、その土を盛ったような土壇⑬がありⅠ郭とⅡ郭を遮断する意図があったようにも見えました。
根羽女城 土橋⑦ 北西から 左下に犬走 奥の堀切⑫の向こう側の上にⅡ郭
Ⅱ郭とⅠ郭の間は犬走のある土橋で結ばれていました。自然地形を利用した加工の少ない土橋の様に見えました。
根羽女城 Ⅰ郭 南東から 御岳社と毘沙門天が祀られている
資料によるとⅠ郭には御岳社が祀られているとされますが、毘沙門天の石像も祀られていました。写真の小祠が御岳社だろうと思いました。小祠の右側に毘沙門様がおわします。ここの鳥居は倒れていませんでしたが、最近のお参りはなさそうでした。
根羽女城 Ⅰ郭北西側の堀切⑨と中央の土橋⑩ 北西から
幅広の堀切⑨と土橋⑩は風化が激しいためか輪郭が不明瞭でした。往時の姿が現況とあまり違わなければ防御性は弱そうでした。資料では一番奥まった位置にあり堀切もしっかりしているのでⅠ郭が主郭に相当するという見解でした。
根羽女城 Ⅰ郭西辺下の犬走⑧ 北から
Ⅰ郭の西側斜面は傾斜がやや緩やかであるためか、犬走状の細い削平地が設けられて切岸を造り出している様に見えました。
根羽女城は根羽城ケ峰とセットで飯田街道と矢作川を監視する武田氏の重要な拠点だった可能性を感じる山城でした。大手道と考えられる尾根道をたどって、少々息が切れましたが楽しく見学ができ良かったです。根羽城ケ峰も一緒に見学しましたので後日当ブログに掲載したいと思います。
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