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遠江・渋川城と東光院 井伊氏の本流か? 井伊直親ゆかりの東光院は?

2019-08-18 | 歴史
渋川城と東光院は静岡県浜松市北区引佐町渋川 にあります。
 井伊直虎の大河ドラマが終わって2年も経過すると「あの喧騒は何だったの?」というような静寂がここ渋川にも訪れていました。
 一説によれば、南北朝期に宗良親王を迎え三岳城を拠点に戦ったのは渋川の井伊氏だったとも言われ、初代井伊共保の墓も渋川城の一角に残されていました。
     ※今回は『静岡県の中世城館跡』を片手に出かけました。

渋川城と東光院 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
 渋川城は渋川集落の中心地の小高い丘の上に築かれていました。城の西直下には井伊谷から伊那谷に抜ける街道が通り、東下には屋敷地がありその東側は堀で守られていたと伝わります。
 井伊直親が一時逗留したとされる東光院は現在の東光院ではなく渋川小学校の跡地となっている場所だったそうです。
直親が青葉の笛を寄進したとされる六所神社も近くにありました。
 今は田となっているAには蔵屋敷、馬場などの地名が残るそうで往時は城に関連した場所だったかも知れません。
 
渋川城 東側からの景観。手前には堀跡とされる小川が流れている。
 堀と城址の間は、田となっていますがこのあたりは城内の屋敷地だったかも知れません。


渋川城 東側から城址に向かう道がある。「井伊共保の墓」の道標が建っている。奥に渋川城。 
 渋川城の東側の法面には井伊共保の墓が祀られていました。写真のご婦人は写真正面の住宅の方で「大河ドラマのときは観光バスが一日に何台も来て、応対に大変だった」と話されました。住宅の敷地を通って井伊共保の墓をお参りしていただくのはOKですとも仰られました。東側の小川は昔は堀だったとも教えて下さいました。



渋川城 東側法面の井伊共保の墓 付近には地名の表示版も建っている
 城址東側の井伊共保の墓付近には地名の表示板が建っていました。
『静岡県の中世城館跡』によると 東光院址の北西に「スロウ」という小丘陵がありこれが城址とされています。地名板の守楼がこれに当たるのではないかと思います。地名板の「殿界戸」は殿垣内(とのかいと)と同義語で、城の屋敷地を示しているのではないかと思いました。


渋川城 主郭は開墾され茶畑になり遺構は見当たらない
 渋川城の主郭にあたる部分は、畑地になり今は茶畑になっていました。周囲の樹木は土地の境界の生垣のように見えました。



渋川城 西側は街道と城址の間が削られ崩落危険区域で、コンクリートの擁壁となっている
 渋川城の西側直下を井伊谷から伊那谷方面に抜ける主要な街道が遠ています。後世の宅地化で城址の裏面を削ったようで、急な崖になり崩落危険区域になって、擁壁が設けられています。西側から主郭に近づくことは困難でした。

旧東光院 東光院を移転し渋川小学校を建設したが、今は廃校となった
 井伊直親が一時逗留した東光院はここにありましたが小学校建設で現在の東光院の場所に移転しました。現在の東光院の場所には西光院があったそうです。
 井伊直親が伊那谷で過ごした松源寺も現在の松源寺の場所ではなかったのですが、ドラマで取り上げられる本来の場所と入れ替わってしまいますね。

井伊氏墓塔群 墓所は城址東側の井伊共保の墓の場所にあったものを江戸期にここへ移動した。
 300年ほど前の江戸時代に井伊共保の墓は城址に残して、それ以外の墓を街道から見えるこの地へ移したということです。
井伊氏の歴史は江戸期に龍潭寺住職南渓和尚の「井伊家伝記」によって書かれたものが広く知られ、失われた歴史伝承と付け加えられた物語があるようなので、渋川井伊氏の歴史も失われた部分がありそうに思います。
 井伊共保の墓が城址に残された何らかの理由があったのでしょう。ひょっとすると渋川井伊氏が始祖で本流だと主張しているのかなと想像してみました。
 

現在の東光院 裏手の墓地には井伊直親のは墓の札がある。 いつから?
 旧東光院がここに移る前には、このお寺は西光院でした。今は東光院となり井伊直親ゆかりの寺となりました。
井伊直親とされる五輪塔なども祀られていましたが旧東光寺が移転した際に移されたのでしょうか?大河ドラマあやかりの世界でしょうか?
 
渋川城は、目立った遺構はありませんでしたが、付近の地形や周辺の歴史をたどることで興味深い見学ができました。
 
 
 

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