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三河・登屋ケ根城 その1 興味深い遺構が多数残る。絵図と対比しながら見学。長沢三城の一つ

2022-01-19 | 歴史

登屋ケ根(とやがね)城は愛知県豊川市長沢町にあります。長沢三城(登屋ケ根城・長沢城・岩略寺城)の一つで、初期の築城は鎌倉末期とも室町初期ともいわれます。東三河と西三河の境目の城として城の歴史が長いので城主、城代が幾度も代わり改修も度々行われたようです。城の歴史が古いこともあって城の名前がいくつもあり登屋ケ根城以外にも番場城・関口城・トカ子城、鳥屋ケ根城、登谷ケ根城などが伝わります。今見る姿は、小牧長久手の戦いのときに徳川家康が改修した長沢城の可能性があるとされます。 
 今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  (2)音羽町史 通史編 音羽町史編さん委員会 2005 (3)三河国宝飯郡誌    (4)浅野文庫「諸国古城之図」(三河宝飯 トカ子)広島市立中央図書館所蔵  などです。なお(4)の絵図は広島市立中央図書館の許可をいただいて掲載しています。


浅野文庫「諸国古城之図」(三河宝飯 トカ子)広島市立中央図書館所蔵 ※絵図の東西南北に注意!
 許可申請により、鮮明な画像を提供して頂けましたので、いくつかの新たな点に気付きましたので、その1、その2で紹介していきたいと思います。 ※トカ子=とかね=登屋ケ根


登屋ケ根城 長沢三城の西端部にあり西からの侵入に備えた最前線の城郭と思われる
 登屋ケ根城は東海道を扼する位置にあり音羽川、切山川、小沢川、上谷下川が四周を流れ自然の要害となっています(小沢川と上谷下川は湿地だった可能性あり)。
 ※岩略寺城 その1は→こちら その2は→こちら その3は→こちら       ※長沢城は→こちら 


登屋ケ根城 諸国古城之図の書き込み表記を現況に落とし込む
1.絵図には小沢川と上谷下川は描かれておらず、湿地帯が画かれています。
2.Ⅰ郭下の南から北にかけては「此ホリ今ハ田」と記され、往時は堀があり一部は水堀であった表現になっています。
3.赤石神社は文政三年(1820)に諏訪大明神から赤石神社に社名変更されましたので、絵図が描かれたときには諏訪大明神だった。
4.絵図の城道はB、C、Dとなっており A、Eは描かれていない。
5.絵図ではⅠ郭からⅣ郭まですべて堀で囲まれている      などに気付きます。


登屋ケ根城 現在の城道はAとBでEもある 「フロノ下」の猪垣は江戸中期以降の構築
 Ⅰ郭はホテルが建ち遺構は見当たらない状態ですが、絵図でみるとⅠ郭東側に内枡形の虎口があったようです。Aの道は描かれておらず、Cの道でⅡ郭南西隅の張り出し部から登るようになっているようにみえます。
 Ⅱ郭は耕作地として利用されてきたようですが一部に石垣が残ります。絵図によるとⅡ郭の東側に大手に該当する土橋を渡って入る内枡形の虎口が在ったようですが、今は枡形遺構は見当たらず土橋④が残ります。土橋の両サイドには深い堀⑤と⑥が残り見どころになっていました。


登屋ケ根城  道A 絵図には描かれていない
 道Aは絵図にない道です。後世の農道かもしれませんね。絵図では右側の田地に堀があったとされます。左手の道上には竹林となった平場③があります。写真奥にⅣ郭が見えています。


登屋ケ根城 Ⅱ郭南西隅の張り出し部   西から      手前に堀②
 絵図ではここを通る道Cが描かれていますが今は失われています。資料(1)では横矢掛のための張出しの可能性が記されていますが、その場合は道Cはなかったと思われますので、絵図の描かれた時期の農道ということになりそうですがどうでしょう。


登屋ケ根城 土塁①と堀② 東から     右手にⅠ郭の急な切岸  見どころです!
 Ⅰ郭南側には堀②と土塁①が明確に残っていて見どころになっていました。このような堀が城域の四周を取り巻いていたのではないかと想像しました。


登屋ケ根城 西端部の土壇⑨ 土塁の名残かも
 車の道に挟まれた土壇⑨が残っていました。土塁①と繋がっていて北部へも伸びていたかもしれません。Ⅰ郭北西辺の下部は車の道で削られて改変があるようなのでⅠ郭北西辺の下部の遺構は失われたようです。


登屋ケ根城 平場③    東から    東端部が堀⑤に繋がる
 今は平場になっていますが、往時は堀と土塁が設けられていたのではないかと思いました。今は細竹が繁茂していますが戦後の空中写真を見るとこの部分は畑地になっていたようです。


登屋ケ根城 堀⑤ 奥に土橋④が見える  見どころです!
 Ⅱ郭とⅢ郭の間に深い堀⑤が残っていてブッシュを掻き分けて進むと見えてきました。右手上に道Aがあります。突き当りに土橋④がありました
 

登屋ケ根城 Ⅱ郭東側の土橋④ 土橋左に堀⑤ 右側に堀⑥
 絵図によると土橋④を渡ると内桝形虎口となっていたようですが、現況は耕作地として利用されていたので遺構は失われたようです。発掘調査をすると確認できそうですね。写真奥にⅠ郭の建物が見えています。


登屋ケ根城 土橋④北側の深い堀⑥ 北から 右手にⅡ郭切岸  見どころです!
 登屋ケ根城の見どころNo.1はこの堀です。写真の辺りは幅広で奥に後世の農作業小屋の跡などがあるので多少の改変があるかもしれません。南側の堀⑤と併せてⅠ郭、Ⅱ郭を厳重に守る備えだったと思われます。


登屋ケ根城 堀⑥からⅡ郭の切岸を見上げる 北から 人物との対比で高さが想定できる   左にⅢ郭の切岸
 堀⑥東辺の入口付近は、竹が生えているものの往時の姿を留めているようで、急な切岸が見どころでした。


登屋ケ根城 Ⅱ郭東側の堀と土塁 西から  右手にⅡ郭の高い切岸  ここも見どころ!
 Ⅱ郭北辺も東側から続く高くて急な切岸が設けられ、堀と土塁が巡っていました。堀は堀⑥が北側まで回り込んでいました。この堀と土塁の西端部は道の開削で失われたようですが、往時はⅠ郭をグルッと巡っていたのではないかと想像しました。

その2 へつづきます。