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三河・八幡砦 発掘調査で確認された方形城址と外桝形虎口の遺構

2022-01-11 | 歴史

八幡砦は愛知県豊川市八幡町赤土にあります。八幡はヤワタと読み八幡村城とも呼ばれますが、ここでは現地の案内板に従って八幡砦とします。桶狭間の戦いの後、岡崎に帰った家康が東三河に進出して一宮砦を築いたのに対抗して今川氏真が八幡砦を築き佐脇城などと併せて防衛ラインを構築したとされます。
 参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  (2)「発掘調査だより No.36」豊川市教育委員会2003   (3)現地案内板A などです。
 なお、八幡砦に隣接して三河国分寺跡が存在し、発掘調査が継続的に行われています。
 

八幡砦 家康は東三河進出の足掛りとして一宮砦を築いたとされる
 (2)によれば、今川氏真は八幡砦を吉田・牛久保の防衛の前線基地とし築き、沿岸部からの敵には佐脇城を守りの前線基地としたとされます。


八幡砦 現地案内板の図を国土地理院地図に重ね合わせる
 資料(1)の発刊は1997年で、発掘調査は2003年でした。そのため地表面観察で土塁状の地形等から八幡砦の場所を現在の三河国分寺跡としていました。その後の大規模な発掘調査の結果で資料(2)が発表され三河国分寺跡と八幡砦の場所が特定されたようです。現地に立つ案内板Aは資料(2)の成果に基づいた略図なっていました。


八幡砦と三河国分寺跡、国分寺北遺跡 現地案内板
 三河国分寺跡、国分寺北遺跡の土地は後世の耕作地や住宅として利用されていましたが、近年の発掘調査の結果を受けて、かなりの部分が更地となり、数カ所で発掘調査を続行中で、ブルーシートで覆われた場所が何ケ所も有りました。三河国分寺の調査結果発表が楽しみですね。
 地表面観察で見えた土塁状の地形は築地塀や三河国分寺に付随する建物跡に関連するものだったようです。
資料(2)によると、八幡砦の遺構は堀を含めて約100m四方の方形で、東側に外桝形虎口が開いていたのが確認できたとされます。結果的に資料(1)とは異なった場所ということになりましたが、表面観察で遺構を推定する難しさががわかりました。八幡砦は道路や住宅地となり遺構は残っていませんでした。


八幡砦 国土地理院Webより  昭和36年の空中写真に加筆 
 八幡砦の遺構は失われましたが、痕跡が残っていないかと思い、土地開発前の空中写真を見てみました。
資料(2)から、遺構は約100m四方ということですので、写真に100m四方の枠を重ねてみました。位置の推定は空中写真の土地区画と現在も残る道と八幡宮と城域内の墓地で行いました。


八幡砦 案内板Aの図
 いくつかの資料をヒントに八幡砦の推定をしてみましたが、現地は道や宅地に変わっていました。図にある西古瀬川は区画整理で開削された川のようで、古い写真や地図ではもっと西を流れていたようです。


八幡砦 案内板Aから外桝形虎口の推定位置を見る  東から
 発掘調査で検出された外桝形虎口はこの辺りだったと思われますが、今は住宅地を貫通する広い道路になっていました。


八幡砦 唯一残された墓地   手前に やわた町民館  東から
 周辺は宅地造成と道路敷設でスッカリ往時の姿は失われてしまいましたが、空中写真に有る城域内にある墓地は残されていました。


八幡砦 西から    背後に西古瀬川
 道路と住宅で遺構は見当たりませんでした。


八幡砦 墓地の南側の旧道   
 昭和36年の空中写真にも写っている墓地の南側の旧道は、いまもほぼ残っていました。この道と墓地の間に往時は土塁と堀があったと思われますので、写真の手前の平場に往時の堀を想像してみましたがどうでしょう。


八幡砦 三河国分寺 塔跡の土壇 東から  戦国期の土塁が残る
 案内板Aの図の三河国分寺跡の築地塀で囲まれた中に塔跡がありました。塔跡に立つ案内板によると、塔跡の土壇の西側と北側に戦国期の土塁が残されているとありました。確かに土塁が有りましたが、八幡砦との関連までは確認できませんでした。

今回は開発・造成で失われた城郭遺構を、発掘調査結果と古い空中写真も参考にしながら、往時を想像して見学しました。僅かに残るヒントを頼りの見学でしたが思ったよりも面白くてよかったです。