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三河・長沢城 今はほぼ消滅したが謎の多い城郭の往時の姿を想定してみる

2022-01-15 | 歴史

長沢城は愛知県豊川市長沢町にあります。城の名は桜ケ城、長沢古城ともいわれます。長沢の地は、古くは今川氏の一族の関口氏が領したとされます。
 後に松平信光が長沢城を攻めとり、子の親則に与えたとされ親則を長沢松平の初代とします。親則から七代政忠までの歴史は不明確のようで、長沢の地は別にあったという説も出されています。
 ※長沢の地は別にあった は →こちら
長沢松平八代康忠の時に東三河に進出した家康が、永禄五年に長沢を康忠に与えたとされます。その後、家康の関東移封に従って康忠も関東に移ったとされます。
 長沢にとどまった長沢松平氏の分家筋もあったようで、後に長沢松平を名乗ったとされます。
今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  (2)音羽町史 通史編 音羽町史編さん委員会 2005 (3)「城」代31号 東海古城研究会編 1966などです。
 なお「諸国古城之図  三河宝飯 長沢」の図は広島市立中央図書館の許可を頂いて掲載しました。
 

広島市立中央図書館所蔵 浅野文庫 「諸国古城之図」より
「三河宝飯 長沢」  ※絵図は南北方向が逆になっています。
 絵図の上部に岩略寺城、下部に長沢城が描かれています。長沢城の東海道沿いには屋敷が描かれています。御殿なのか屋敷なのか特定は難しそうです。城郭部分は少しデフォルメされ、他に伝わる絵図との差異が少しあるようです。長沢城は岩略寺城と一体の一城別郭であったという説もありますが、この絵図に「三河宝飯 長沢」として岩略寺城も一緒に描かれていますので一城別郭と認識されていた可能性もありそうですね。
  ※なお、絵図の書き込みに 城主松平上野 とあります。
 

長沢城 国道1号の開削工事で城域は南北に分断 多くが住宅地と学校になり遺構はほぼ消滅した
 長沢城は音羽川の南側対岸の山上に築かれた岩略寺城とセットで東海道をはさむ位置にあります。長沢城の南側には江戸時代初期に将軍上洛の休憩所としての御殿が設けられました。歴史に登場する「長沢城」は付近に所在する登屋ケ根城、岩略寺城と明確に区別されていない場合が多いようで「長沢城」が具体的にはどの城を指しているかは不明とされる場合が有るようです。


長沢城 案内板の図    元禄十二年とある  案内板は長沢小学校 南東隅の道沿いに立つ
 将軍上洛時の御殿が描かれています。城郭部分も写実的で地籍図ともかなり合致しているように見えますので元禄十二年(1699)頃の様子を良く表しているのではないかと思いました。
 なお、御殿が廃されたのは、元禄十二年よりも20年ほど前のようですので、まだ御殿跡はしっかり残っていたと思われます。諸国古城之図が描かれたのはそれよりも数十年後ですので御殿付近の様子は変わっていた可能性がありそうに思いました。 


長沢城   地籍図  図中の「塚」 は東海道の一里塚
 城域部分は案内板の図と合致する部分が多いようですが「御殿」の部分はどうでしょうか。


長沢城 空中写真で戦後の変遷を見る     左から昭和36年→昭和52年→現在
 昭和36年の時点では国道1号がすでに城址を南北に分断していますが、宅地開発が進んでいないので北部の地形はよく残されています。国1の南側と東海道の間は学校が建ち、かなりの部分が失われていますね。この辺りに御殿があったように思います。校舎の北東には屋敷が建っているのがわかります。昭和52年の写真では長沢小学校の運動場と体育館が東に拡張され始めているのが見て取れます。校舎の北東部の屋敷は国1の北側に移転するようで、すでに建物が見えています。 最新の写真で案内板の位置と一里塚の位置がわかりますので古い写真との対比ができました。


長沢城 A:御殿 B: 屋敷 C:移転屋敷
 いくつかの資料や写真から、往時の長沢城の位置を現在の地図上に重ねてみました。東海道と音羽川を挟んで長沢城と岩略寺城の谷地形の距離はわずかに200m程です。小牧長久手の戦いのときには、秀吉の東三河侵攻に備えて長沢城の普請を行ったと松平家忠日記にありますが、東西の三河の境目の城としてセットで有効に機能したであろうことが推測できますね。この時の長沢城が長沢三城のどれに該当するのかは明確ではないようです。


長沢城 国1北側の長沢城跡標柱 
 写真右側は城域を南北に分断する国道1号。国一を挟んで南側にも城域がありました。


長沢城 住宅地の中に城址碑が立つ
 長沢城は宅地開発などで城郭遺構が殆ど失われてしまいましたが、住宅地の中に城址碑が立てられていました。主郭部は最高所にあったようですが、城址碑の位置はそれよりも少し下がった場所でした。


長沢城 屋敷地跡 長沢城門跡の石柱が立ち井戸跡が残る
 昭和36、52年の空中写真に写る長沢小学校北東部の屋敷は、小学校の拡張工事に伴って国1北側に移転したようで、更地となり小学校の敷地内になっていました。見学の際は学校の許可を頂くことが必要です。


長沢城 屋敷地に立つ長沢城門跡の石柱  今は学校の裏となっている
 空中写真と比較してみると、石柱の立っている位置は南からの道が屋敷に入るところのようですので城郭遺構の門跡ではなさそうに思いました。屋敷に門があった可能性は高いので「門跡」は確かなのではないでしょうか。

今回は遺構が殆ど残らない城郭を絵図、地籍図、空中写真などを使って現在の地図上に再現してみることにチャレンジしてみました。かなり大まかな姿しか想定できませんでしたが、想像力を働かせながらの想定は案外面白くてよかったです。