現代の生活を支配しているのは、事実の積み重ねです。そしてその事実は全く物質的欲求から生じています。死んだ。ハラヘッタ。クルマ欲しい。苦しい。キモチイ。それを唯物論の世界というのではないか。だって、本能の感覚だけだから。辛くても何かのためなら、心のどこかで安心できるのがたとえば、人間らしいってことだと思います。
中島義道さんの文章を読む時も、そのことを思います。彼の文章は事実を淡々と論理で組み合わせたものです。論理的であるが、それ以上ではない。苦悩が元にあって、放り出された自分の身体の処置に悩むっていうような、死体処理者の心境にも通じるような、事実そのままの世界。すごくナマの苦痛から発した悩みで、結論にはたどり着けそうにない。それは中島氏が、その程度の作家だからなのではなくて、私たちを取り巻く現実がそうであることを要求するからだと思います。
AMAZONの感想で、和辻哲郎とか、宮本常一とかについて、「何言いたいのかわからない」みたいなこと言っていた人いたように記憶しました。確かに彼らの書くことは論理的というより情感的であるが、にもかかわらず、昔の日本人や日本人のルーツに強い郷愁があるから、面白いのです。読者はユートピア(グリーンピアではありません注:戦後マスコミ)の存在を信じることがでるからではないかと思います。