月のたび

日々の日記

小旅行

2008-01-30 22:20:34 | 今日の出来事(重要性低)
海外旅行しても、単に観光地に到着するまでのワクワク感があるだけで、実物の、たとえば、モナリザやグランドキャニオンを見てしまえば、その感動が本物かどうか確かめる術もなく、単に雰囲気に酔うだけ、になってしまいがちなもの。

だから、自分の体験や知見を空間的に拡張したいだけであって、日本の外に出たいと思った人が海外に行っても、そのうち海外旅行に飽きれば、宇宙旅行に行ってみたいと思うだけで、そういう発想ってずっと続けていればきりがなくなる。

「どこか遠くへ行きたい」って気持ちはわかるけど、遠くへ行って何をしたいのか、は人それぞれ。そして、その遠くへ着いてしまって、何もすることがないのに気づくのが私。

だから、私は植物に興味のあるふりをして、なんでもない土地に降りてなんでもない風景を見るために植物や地形を観察するのがよいと発見した。それは私の気まぐれを他人に説明するのに立派に成立する口実だろう。気まぐれをわかってもらうためには口実が必要でしょ。

今日は1月にしては風のない暖かな晴天であった。我が住む地域は、町並みは寂びれ、年寄りばかり多いし、発展から取り残され、錆びたトタン屋根の家々が時間をとめたまま蛇行する道沿いに建つかと思えば、そういうのと一緒に、レンガ建ての新しい2階屋や公団住宅など、ごっちゃにバラバラに混在する、何のまとまりもない風景であって、こういうのは日本国中普通の風景なのだが、それでも、今日の冬の晴れた日差しの中で眺めてみると、気分的に違ったように見えなくもない。無理矢理の思い込ませに近いが、全然自分が知らない土地に行っても抱くような不思議な気持ち。おそらく、仕事中ではなく、さまよったとしたら、もっと違ったふうに見えてきそうな見慣れた町。

シベリヤ抑留記の感想

2008-01-27 12:52:19 | 読書(興)
前にも書いた前野茂氏の『ソ連獄窓十一年』を今日読み終えた。

同時に、私の生活は豊かで幸せだと思った。

なのに、実生活を顧みて、その豊かさを実感できない。心から豊かだ、とは頷けない。

私たちが今生きている社会は、ご先祖さんが辛い苦しい体験をし、子供たちにはこんな思いはさせたくない、と思い、辛く苦しい体験をさせないようにって配慮が下敷きになっているはずである。

食うものがない。生きているのを知ってほしい。

どれをとっても、幸せすぎて今の私は感謝や感激はしない。先人の労苦を知らなくなって、そんなの無縁だと思い込んでいる。

それを、収容者は日本語のラジオを聞いたといっては興奮し、家族から贈り物が届いたといっては有難くおもい、日本の政治家が来るのを終日話題にする。それは囚人生活で辛酸を嘗めさせられているからだ。とりとめないことに非常な感激を覚えることができる。


一人はみんなのために、みんなは一人のために

2008-01-22 20:39:16 | しみじみ(滋)
先週の日曜日は風邪で寝ていたが、風邪じゃなければ、私はどこに行っただろうか。外出なら、○○健康ランドに行ったろうか。そこで、年甲斐もなく、温水プールの滑り台を滑って休日を楽しんだか、それともマッサージ・ルームで体の疲れをほぐしてもらったか。そんな感じだろうね。

だから、外出すると、そんな過ごし方しかできないのをわかっているが故に家に閉じこもっちまう。というか、世間並みの歳の取り方なんて私にはできない。

わけもわからず生まれてきて、結局最後は死んじまう。認めたくはなくても、死ぬのはイヤだと思う。でも、死の恐怖に怯えてばかりもいられない。だから、妥協して、「くう、ねる、あそぶ」する。そして、「くう、ねる、あそぶ」するうちは結構楽しい。だから、とりあえず、不安は忘れて、楽しむ奴等が利口なのだろう。

人生は過ぎ行く...。La vie s'en va... Life goes by...

もし、今私が死んで、魂が体から自由になったとして、たとえば、親戚のおばあちゃんの家に漂ったなら、ばあちゃんは普通に家で生活しているのを見るであろうし、本家のおじさんの家に漂っても普通に生活しているのを見るだろう。それから何十年か過ぎて、私を知る人が少なくなっても、私の暮らした家はそのままであろうし、家の中で家族は普通に生活しているだろう。それから、もっと歳月は過ぎ、我が家が取り壊されてても、近所の家並みは大体、懐かしいままだろうし、もっと、百年以上過ぎて、見知らぬ地域になったとしても、私の遊んだり歩いたりした山や川は輪郭を残しているだろうし、それを私の魂が見たら懐かしく感じるはずだと思う。

つまり、何か、自分の生きた証みたいなものが残ったら、後悔の少ない死に方と言えるだろう。

その証は、社会の役に立つことが良いかな、と思う。だって、自分ひとりで生きられるわけじゃないから。社会に支えられて生きてきたわけで、生きてこられた恩を社会に還したいと自然に思うのが人間らしいってことではないか。

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」

ソ連獄窓十一年

2008-01-17 21:29:44 | ひとこと(重要性無)
前野茂『ソ連獄窓十一年』を読んでる。面白い。体験できないことがわかった気になるから。

私生活で毎日いろいろ理不尽なこと感じる。でも、ソ連に抑留された方々ほど甚だしい理不尽さではない。身近に起こった実話であるし、現在平和ではあるが、こういう苦境に陥らない保証はない。そういう風に読むと面白い。


「おとな」

2008-01-15 23:02:46 | しみじみ(滋)

「痛いニュース 2ちゃんねる」で、面白い記事があった。 リンクを張った。

独身男のライフスタイルに変化が「なんかもう世間で流行っていることとかバカバカしい。ドラクエのレベル上げていたほうがいい」 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1079522.html

 

とにかく最近の独身男性はテレビもみないし雑誌も読まない。
これってつまり、世間で一体何が流行っているか、何が面白がられているかという
〝流行〟に興味を示さないということではないだろうか? 

30代独身男性の平均的ライフスタイル、考え方とか知らないけど、これすごく良くわかる。その年齢層をターゲットにしたような「シックな雑誌」開けばわかる。雰囲気でわかる。「大人の必須アイテム」の類の文句が多用され、哀れな私がそういうありそうもない流行に流されてゆきそうになり、今以上の哀れに陥ろうとする感じを先取りしてしまい、結局何もしたくなくなる。踊らされて、誰かさんが得をするだけってのはこりごり。

だから、事は「大人の必須アイテム」では解決しなくなっている。

そして、僻みもあるだろうが、いい歳した大人の考えるのはセックスのことだけなんだろうか。男性雑誌を開いてみると陰に陽に女の事ばっかり。LEONの中吊り広告見てもわかるけど、このまま自分がもっと歳とって、10年20年後の男性向けでしょ、LEONは。そのとき、やっぱり女の気をひくことばかり考えて汲々としてる自分が自分としてイヤだな。性欲旺盛なるチョイワル・オヤジでいいのかって心の隅で自問自答しながら気負って生きてゆくのか。さみしい。

だから、「おとな」って何かわからない。

私が子供のころは、大人になることに対して憧れがあった。自分は早く大人になりたいって気持ちが自然にあったように思う。でも、大人になった今、その憧れって何か、と考えてもわからなくなっている。私の場合は、ぼうっとしているうちに歳を取って大人になった。それだけ。べつにそれで、何がどう変わったわけでもない。意識としては中学生がセックスに目覚めてはしゃぐのと大差ない。ただ、はしゃがずに表面取り繕っているだけ。

手品の種明かしを知った後でも手品を楽しみたいのに。

だから「大人の~」は信用しない。「大人のミラ」(車)ってあったな。私が子供の当時、大人がスゴく見えた一つの理由が、車を運転できることだった。けど、今になって思えば、車ってなるべく運転しやすいようにできているわけで、そんなこと知っている今の子供なら、運転できる大人はスゴいと思わないんだろう。

 


社会奉仕

2008-01-14 22:51:46 | しみじみ(滋)
2chの京橋駅でのゴキブリ・オフの動画を見たが、迷惑、非常識とか批判はあるだろうが、彼らの内側からこういう形で社会に貢献しようという機運が高まり、やり方は拙劣であっても、一つの結果を残せたのは良かったと思った。

社会貢献って純粋に社会のため、世のため、人のためってわけでもない。本田透さんも言ってたけど、阪神淡路大震災で若者のボランティアが活躍したけど、その人たちだって、結局、親切を装いつつ、かわいい女目当ての下心でやってただろうことは誰でもうすうす思い至ることだろうし、事実らしい。だから、怖いもの見たさ、野次馬根性が半分くらいあるのは当然だろう。

自分がなんとなくインターネットに感じるのは、既存の社会に対する自暴自棄な反感みたいなもの。特に2chにはそれがつよいような気がする。

けれど、そのようなオフ会を催して、ゴキブリを退治し、以って京橋駅を清潔にしようって精神は、自分がインターネットに対して感じていた先入観とは違って、進んで社会貢献しようという意識の現われに見えた。

こういう社会貢献の意識、無償の働きは今の個人主義、エゴイズムの進んだ国内では新奇な現象に見えた。

「一緒にゴキブリを退治しよう」って呼びかけに応えて汗を流す人は立派だと思う。無関心に駅構内を通り過ぎる「社会人」の方が冷ややかといわねばなるまい。なぜかといわれると、うまく答えられない。でも、たとえ素朴な好奇心に発したものであれ、それは紛れもない社会貢献であって、「社会人」、「大人」はこうした新しい試みに対して理解が必要だと思う。

私的なこと

2008-01-12 21:47:49 | 今日の出来事(重要性低)
話のきっかけをつかむって難しい。
でも、ささいなことでも口をきくように心がけないとますます難しくなる。

基本は心だと思う。人に過剰に期待して、欲望や高望みの結果、トラブルに巻き込まれたりして、泥沼にはまって、結局、社会全体が私を追い出そうとしてきて、私は裏切られた感をつよく感じたりする。

だから、この社会は生きるに値せず、それでもこの身が地上にあるうちは、旨いものを口にすればおいしいと感じ、親切な友人には心から感謝を感じ、キモチイイことは多少は恥ずかしくてもキモチイイわけで、せめて自分の身の回りだけでも信頼に値するものに囲まれて日々を送りたい、というささやかな望みでよいと思っていた。

だから、そのささやかな輪の向こうにあるものには関心がない。たとえば、仕事で人と仲良くやっていくための会話が苦手だったりする。その人が何に興味があるとか、儲かっているのかとか、私には「関係ねー」だから話ができない。話をしないと、やっぱり付き合いとしてよそよそしくなる。それじゃあ、これからを考えた時、やっぱり仕事で一流にはなれない。

だから幸せな人生を送りたいなら、この社会を前向きに受け入れなければならない。それは社会に生きる人にも関心をもつことだと思うし、そのなかに「居させてもらえる」って感謝の心があって、できることか。

1月9日

2008-01-09 22:19:45 | 今日の出来事(重要性低)
今日は普通の一日だった。いい写真が撮れた。

普通に仕事で殴られて、片肘で小突かれて、足で蹴られて、怒鳴られて罵られて終わった。
普通の感覚の人間なら、こんなことされたくない。当然だ。当たり前だ。自分もそうされてイヤだと思う。そんなことがわからないのか!

だが、仕事ができないのだから、なにをされても仕方ない。悔しい、泣き寝入りの腹立たしさをどうすることもできない。これが現実で、学校で教えることは、通用しない。

中谷彰宏さんが説く仕事観もこんなものだったな。中谷さん流にいえば私は恵まれているわけだ。けれど、今思うのは、他の誰かに今私が味わっているような仕事の辛さをさせたくないな。自分が人を教える立場になっても、今の気持ちは忘れたくない。

それでも、時間がたてば、今が懐かしくなるだろうね。

明日の仕事

2008-01-08 23:08:16 | ひとこと(重要性無)
明日の仕事は、「厳しい」といわれている他班と共にするそうだ。
だから、今夜のうちに明日の仕事の内容をさらっている。
それが役立つかどうかわからないが、逃げずに運命として受け止めたいなあ。
結局、実力の世界だから、仕事ができない者の立場は厳しい。
逃げるわけにはいかん。