月のたび

日々の日記

無為な休日

2008-03-24 06:49:01 | しみじみ(滋)
春分の日と、土日って休みが続いたけど、私はどこに行くでもなく、かといって家で何するわけでもなく、ボンヤリしてしまった。

出かけていっても楽しいことないし、出かける友人もいないし、家で本読んでてもイマイチだ。

仕事も慣れてきて、落ち着いてくると、休日は暇になる。

おかげさまで、今の仕事は以前のに比べ休日出勤や残業がほとんどないのであんなに羨ましかった休日を存分に味わえる、のに、今それのなかに入ると、ムダにすごしている自分にがっかりする。

すごくもったいないことしてると思う。私の同級生は休みもなく仕事を続けている人もいるだろうのに。

けど、何しようかな、って考えると、難しい。

これって、生きる目的や使命感を持っているかってことだと思う。今の私にはそういうの考えないでボンヤリしてるから、ダメなんだと思う。

自分が何を本当に望んでいるか。

戦後の人は単に腹減ったのを解決するためとか、生活必需品を買うために働いたりすればよかった。基本的な生理を満たせればよかった。あと、戦前から受け継いできた価値観も残っていただろう。でも今の時代は違う。もちろん仕事も大切だけど、何のために生きて、何をしたいかを自分で考えてみつけなくちゃならなくなっている。

自分で考えて見つけて、実行するってのが大事だと思う。

その意味じゃ、安倍首相が出てきて「戦後政治を終わらせる」みたいなこと言った時は、私も何かが変わりそうだと思い、ワクワクした。そしてワクワクしているうちに安倍さんは潰されちゃった。

私は日本人で、家族の一員で、一人の人であるのに、わけもわからず生まれてきて、腹が減るし、外は寒いので家にいるし、みんなが働いているので私も働く。そしてそのうち歳とって死ぬ。こういうのを不条理というんだろうが、たとえば、安倍さんが日本を変えてくれて、私たちに日本人としての使命感を与えてくれるのなら欲しいと思う。生きる意味を与えてくれるから満足できる。

でも、これからは自分で生きる意味を探し、見つけて実行する時代だろう。自分の生き方を自分で決める自由がある以上、何のために生きているかは私が決めなくてはならない。だれか、強力な指導者が現れて私たちの進む方向を示してくれる、みたいなことじゃダメだ。他人が何かしてくれると期待したままではダメ。

保阪正康という人が『昭和良識派の研究』という本で戦後の日本を唾棄すべきもののように激しく批判していた。それで興味を持ち彼の著作をいろいろ読んだ。特に面白かったのは、文藝春秋2007年2月号「私が会った『昭和史の証人』秘録」は歴史研究を志したころの個人的エピソードもうかがえ、よかったが、今の時代にボンヤリしている人には橘孝三郎が現代文明を否定し、しかも世間から注目されもせず信念に忠実に生きる、その意味がわからない。わからなくなってる。自分の信念を持ち、それをいつまでももち続けるというのはどういうことなのか、わからない。でも、ラクな暮らしで生きていければ、それでイイんじゃないという自分を超えていかなくちゃならない。

変な話だけど、「明眸皓歯」という言葉がある。これは死語だと思っていた。けれどペットとAV女優にはその言葉にぴったりな表情ってあるな、と最近気づいた。どちらもこのごろすごいブームだよね。前にゴールデンレトリバーを飼っていて、こっちが可愛がればすごくいい子に育つ。もう、犬依存症になるくらい可愛がった。アダルトDVDも以前に比べれば遥かに可憐で、清く、正しく、美しく、キレイな女の子がいろんな事してくれる。それはそれでいいけど、明眸皓歯ってのは生まれつき美しかったり、歯並びが良かったり、かわいかったりするんじゃなく、清い心からわいて出るような笑顔のすがすがしい様子を表す言葉じゃないかと思う。誰か一部の人のためのものじゃない。わけ隔てなく誰もが明眸皓歯になれるチャンスがある。なのになんとなく私にはよそよそしい言葉だ。

今までにない!小説

2008-03-23 20:13:10 | 読書(興)
下村湖人作『次郎物語』を読んでいる。

はじめて読んだ小説だけど、すごくリアルに感じる。

日常のひとつひとつの所作の積み重ねが、大きな意味を持ってきて小説を動かしているような作品。たとえば、吉川英治の『宮本武蔵』や司馬遼太郎のいくつもの作品や、山本有三の小説にもつうじるような、戦後においてあまり注目されることのなかったようなもの。

うまく言えないけど、自分が生きてるために普通に、自明なこととして、立ち止まって考えさえしないような所作が、その本人にとって、だんだん重要になってきてしまい、収拾がつかなくなるような事態も起きてくる。そういう、あってはならないことが、自分の身から出て行って、大きな波みたいになって本人を呑み込んでしまう。

作品中では次郎は、まるで、読む前からストーリーがわかってしまうような物語の登場人物ではない。

何と言えばいいのか。

予定調和的ではない。

よく、『金閣寺』を読むとわかるけど、読者にしてみれば、最初の十ページくらい読めば、その主人公がヒトクセありそうだと推測するわけで、題名も『金閣寺』だから、もうストーリーの展開の半分はわかっちゃったようなもので、それだけ面白さが減るわけで、『人間失格』の最初の数ページの描き方にしても、なんだか作者の太宰さんが登場人物に偏ったイメージを無理やり押し付けて、それを読者にも強要するような書き方をしている。

作者が登場人物にあるイメージを植えつけるような書き方をしている作品って、その作者を超えて物語が展開しないから安全だと思う。
そういうのが好きな人はそれでいいけど。

それに対して、下村湖人という人は名前もマイナーで作品もほとんど流布されない。けど、心の自然な動きや人間関係の難しさ、身の回りの困難、その中で自分らしくいたい自分とその切なさやらが、ストーリーの中ですごく読者にわかりやすく、共感できる形で示されている。そして次郎は作者や語り手の思惑から完全に自由である。だからこちらも自由に読める。

こういう面白さは、テレビ時代の人には伝わりにくいのだろう。