月のたび

日々の日記

稲毛幸子『かみかぜよ、何処に 私の遺言―満州開拓団一家引き揚げ記』

2018-02-09 20:28:20 | 読書(興)


稲毛幸子『かみかぜよ、何処に 私の遺言―満州開拓団一家引き揚げ記』(amazonで売ってます!)

このたび、この本を読むようになり、本当に忘れてはいけない、日本人として受けた数々の苦しみの甚だしさに、多くのひとに読んでもらいたくなりました。

何度も繰り返される、「戦争はもうたくさん」という気持ちを、私たち読者は、ちゃんと理解しなくてはならないと思います。

それは、単純な国と国との戦争よりも、もっと身近で、これからの日本のトラブルの元は、外国人(ロシア、満州(中国)人、朝鮮人)であり、食糧危機であり、経済危機であり、流行病であるという感じが強くしました。

しかも、それがある日、突然起こるのです。これからの日本を予言しているような、不安にさせる実話です。

いままでマスコミはいかに日本がひどいことをしてきたか、そればかりを繰り返し洗脳したせいで、国内の政治が偏ってしまい、おおぜいのインチキな政治家が当選するようになってしまった。

そこでアイデアが浮かんだ。中学三年の姪の誕生日にこの本をプレゼントしよう!喜ぶのか、顔をしかめるか、わからないけど、姪はさる外国人アイドル?タレント?に興味があるらしく、修学旅行の沖縄でもわざわざ洞窟に連れていかれてプチ洗脳済みなので、本当の外国人の正体を知って、気を付けてもらうために、私のできることって、これだ、とおもって、自分の分以外に、もう一冊追加購入してしまったよ。

これを渡すとき、ちゃんと念を押そう。「戦争よりも、本当に怖いのは、外国人と、食糧危機と、経済危機と、流行病だと思う」ってことを。

あとは、自分の頭で考えてくれるだろう。


ただなんとなく

2018-02-05 21:31:12 | 読書(興)
今日は山で一人で力仕事をした。

気持ちの良い晴天で、海も青く、寒いが、景色を独り占めできるようで、マイペースで誰にも気兼ねなく一日を過ごした。

思うに、人は高齢になり、施設で余生送るような生活は、誰も望んでいないのではないか。

人にとって、たとえ粗末な暮らしであれ、自分の自由で生きるのが幸せだ。

そんなことを思いながら、伐採枝をあっちからこっちへ、運んでいると、疲れるが、これが自分に合った仕事なのかどうか、やりながら考える人になる。

そのとき急に村上春樹が浮かんで、あの小説は少なくともオレには合わない、断言する!、って感慨深く思うのだ。あの人の本は一度しか読んでないが、私には合わないわ。だってオレ、あんな簡単にモテないもの。しかも気障すぎて悪寒がする。

私たちは、モテないからする考察のほうがよっぽど文学らしい文学だよな、とおもって、一人合点の結論に達して、力仕事の単純労働中だからこそ、それがすごく納得できるもの、なんだよな。

そういうところ、充実した仕事ができているのだ。おそらく、いろんなことが思いつく自由の余裕があるところに、楽しみがあるのだ。

けれど、どうして大学の時、マトモに就職活動しなかったのだろう?って今でも思うわけだが、その理由がいまだに『ただなんとなく』なのである。自分に聞いても答えがわからないからな。いつまでも謎なのだけどね。

けど、今日ちょっとわかった!学力以外の力で、底辺からのし上がるのが本当の生きる楽しみだよ、とは思う。就職活動と同時に悩みもあって、何か『このままじゃ死ぬ』って思った時もあったよ。ブレぶれで苦しんでた。いつも苦しみは多かった。そのうち、そういうものだと思ってきて、だから、欲張らなくなった。そうして、もっと自分を知ることが必要だと思った。

だから、『ただ何となく』という勘に頼ってよかったと今思える。

為末大さんの本を読んだ

2018-02-04 22:42:13 | 読書(興)
今日は寒いので読書をした。

為末大さんは年齢が近いことがあって、とてもおもしろい本を書いている。

会ったこともないのに、考えが近い。

私の今生活してる周りには、親しい仲間はすくない故に、読書を通して、共感できる考え方を知るのは楽しい。

『走りながら考える』ってタイトルだ。

いままで何度も読んでいるが、今日はいつもみたいにサラッと読もうとしたところ、途中でゆっくり立ち止まってしまい、深くわかるんだよな。言いたいことが。

「これを今日の心がもとめていたんだ」みたいになりました。

為末大「走りながら考える」を注文した

2017-01-18 22:05:11 | 読書(興)
今日は近所の書店で為末大「走りながら考える」を注文した。

いつもはアマゾンの良き利用者であるのに、わけあって、あえて近所の書店から取り寄せ。

そのうえ、キンドルで購入済であり、内容は途中まで読書中である。

それだけ、内容が素晴らしかった。

私は為末さんとはとても比較にならない元ランナーであるが、書かれていることは、本当によくわかる。それに、今なお大勢に好かれているのもよくわかるし、人間性のよさが彼にはある。

もっとも、見習うべき値打ちがある人だ。

だから、本書はゆっくり何度も繰り返して読んでいる。

まるで話のわかる友人が書いたものを、細部まで意味を知ることができるから、自分の個別具体的な体験に照らし合わせるようにして読める。

これは、スポーツ選手向きの本というより、人間同士のコミュニケーションの仕方についてとても参考になる知恵がたくさん含まれている。そのために書かれたかのようだ。

話のわかる友人をもつのは、おもしろいものだ。

ところで、今日は、仕事らしい仕事は無かっただけでなく、サボり気味になりつつある状況。人の中に入っていって、仕事を取ってくることが、ちょっと、やや負担になり始めている模様かも。

なんでだろう?

よくわからないが、気合がいつのまにか、足りない。

これは、一体何だろう?

おそらく、これもコミュニケーションの問題であって、普段から実践してないと、気がつかないうちに気合が無くなるものかもしれない。迷いが生まれて、立ち止まってはダメだ。迷いが生まれても、走り続けることだ。

だから、明日こそ頑張る。やっぱり実践第一だからね。

初めてマトモなシェルスクリプト書いてみた

2016-01-02 22:24:44 | 読書(興)
シェルスクリプトの勉強中ですが、何が何だか、よくわからなくなるので、実用的なものをインターネットで調べたりして、書いてみた。

独学で初心者です。

ubuntu利用者で、プログラム経験無しでも、今日半日悩みぬいてここまでできた。パソコンも外仕事に劣らぬほどの体力使うものだね。休憩の取り方が大事だろう。

ubuntuの端末から、$ sh wallpaper で実行すると、 壁紙が変わり、qを入力すると、元の壁紙に戻る。未完成なので、改良の余地ありです。


1 #!/bin/sh
2
3 WALL=`gsettings get org.gnome.desktop.background picture-uri` # まず、元の壁紙を、変数に入れて保存します。
4 DIR="//usr/share/backgrounds" # ubuntuのデフォルトの壁紙があるところです。
5 MESSAGE="Enter q to quit" # メッセージを変数に入れます。
6 PIC=$(ls $DIR/*.jpg | shuf -n1) # ubuntuの壁紙置き場のどれかを選んでいます。
7
8 while gsettings set org.gnome.desktop.background picture-uri "file://$PIC"
9 do
10 echo $MESSAGE
11 read ANS
12 case $ANS in
13 q ) break ;; # qでループを抜けます。
14 * ) echo $MESSAGE ;;
15 esac
16 done
17 gsettings set org.gnome.desktop.background picture-uri "$WALL"
18 exit


屁理屈にならない議論の仕方

2013-11-26 00:04:07 | 読書(興)
このごろ読んでいるのは大森曹玄著『山岡鉄舟』です。

おもしろいです。

どこがか?

内容的に、リクツで理解するものでないところが、面白い。

たとえれば、頭じゃなく、心でわかろうとすると、よくわかる、内容です。

最近のマイブームはです。

自分の中で、心と頭が対立するときが、よくあるんです。あるというか、心を静かにすると、心と頭が対立することが、いかに多いことか、気がつくようになりました。

たとえれば、頭でこねくり出して考えたものは、自分のずるさ、我欲が潜んでいること多いです。だから、頭で考えたものは屁理屈だと思うようにしています。このごろは、頭というより、心で考えたことをメモにして、そのラインに沿って考えるようにしています。

そして、山岡鉄舟本は、身の回りを、心で捉え直そうとしたときの感覚で書かれているような気がします。

どんな素晴らしい意見でも、心が無ければダメです。

それを強く感じるのは、たとえば、NHKの政治の討論番組を見ているときです(いつも2~3分しか見ませんけど)。

ああいう議論は生産的なのでしょうか。番組製作者は何の為にああいう無意味な番組をしているのでしょう。

屁理屈の言い合いと、議論が噛み合わない、噛み合ってはいけないという毎度同じパターンで、それを見ている人たちも、何も考えていないのでしょう。

でも、それ以上の議論のクオリティの高さ求めるのはムリそうです。これがマスコミの現実で、そもそも、心の底から出てきた意見であっても、マスコミのフィルターを通した瞬間に、良心は抹消される。テレビは人間の心を消してしまう。


テレビとはそういうものらしいです。


政治家の議論が屁理屈と、屁理屈に対する屁理屈、の応酬になるのはそのためでしょう。

話は飛びますが、明治維新を成し遂げたのは、だと思うんです。国を思う心。こういう心を敵も味方も持っていたから、お互い等しく持っていたから、心で話ができた。相手がたとえ屁理屈を言おうが、心から意見する者が、敵味方をこえて認められたと思います。ところが今では逆です。リクツとして妥当かどうか、の方が大事になっています。それがテレビ受けするからです。

原発事故の除染みたいに、リスクがあるかないか微妙な問題が生じても、心で考える習慣があれば、屁理屈の渦やマスコミの過剰報道に巻き込まれずに、多額の除染費用の発生を防げたかもしれません。

山岡鉄舟 (禅ライブラリー)
大森 曹玄
春秋社



モチベーション低下対策に取り組んだ

2013-07-02 20:10:46 | 読書(興)
はじめの一歩を踏み出そう―成功する人たちの起業術
マイケル・E. ガーバー


面白い本だった。レビュー読んでみて買いました。今見たら、レビューがもっと増えているのでうれしくなります。

書かれてる内容を要約すると、先ほどの繰り返しになりますが、

■事業(仕事)は手段に過ぎない。仕事に振り回されるのはいい人生じゃない。仕事を通して自分の信念を実現することが真の目的である。だから、仕事の手を抜けば、それだけ自分の人生の幸せが遠ざかっていってしまう。

■仕事にその人らしさが表れる。雑な仕事しかできない人は、そういう人間と思われるし、退屈そうに働く人は、仕事が退屈なだけでなく、自分に対しても退屈する。嫌な仕事なんて存在しない。嫌だと感じるのはその人の内面がそうさせてるだけで、そういう人は仕事を、自分を試すチャンスと見ていない。


彼岸の中日に思うこと

2008-09-23 21:46:24 | 読書(興)

これはどうでもいい、何を言いたいのかわからない、くだらない話なので、いい加減に聞いて欲しいのですが、今日、八木弥太郎著『ラバウル南溟記 戦場に果てし霊(みたま)よ安らかなれを読了した。この本は戦争へ行った一兵士の記録であり、苦しい時代と戦友に対する思いが熱く深く込められている。戦争とは無縁の時代に生きてる私が、仮にいま戦争でラバウルに行くことになったら感じるであろうような平凡な人間の視点から書かれており、遠い昔の話なのにすごく共感させられる名著です。

その中でいのちや魂について八木さんの独自の臨死体験を交えながら考察した箇所がある。その一節の引用です。

 囁く声がする。すでに別の新しい人間の履歴が私のために用意されているのだという。

引用は戦後の混乱期に肺炎にかかり、死にかけたときの体験である。身体を離れた魂がどこか別の場所でそういう声を聞いた、という。

もしこの臨死体験を信じるなら、魂は肉体が滅んだ後も残っており、別の肉体に乗り移って、再び人間として生きていくわけで、言わば人間世界は輪廻の繰り返しになる。

こうして生きている私も、死んだ後で生前の記憶、思い出は消され、性別や家族構成、国籍などもリセットされるかも知れぬ。

とすれば、今の私とは全く別の人間になるわけで、別人の私は、生まれた環境から脳の大きさ、性別、何からなにまで違う。だから考え方、立ち居振舞い等も違ってくるだろう。ただ同じなのは、そういういろんな属性を与えられる以前の、元素みたいな、魂となづくべきもの。じゃ魂って何?と聞かれてもわからぬ。

けれど、元は同じはずの魂が、あてがわれる肉体や運命の違いにより、別人になるからには、「私は私、他人は他人」って区別は成り立たなくなる。「今の私と対立してるあの人は、元の魂が似ているかも」といえなくもない。

それから発展して、仮に八木さんの輪廻説が正しいならば、元の魂って、誰でも同じなのかも知れない。同じ魂でも、複雑な世間の仕組みのために様々な人間模様をなしているのかもしれない。

あるいは、勝手な想像だが、人間以外の蜘蛛や蟻だって、人間の知性や肉体や本能を与えて、人間の環境に住まわせられれば、脳の働きや指先の器用さといった能力も同じわけで、だから、現在の自分の目の前の蜘蛛や蟻は単に肉体だけは虫けらであって、もっと基本的な元素的な「何か」はヒトと同じものかもしれない。

常々口にするが、私は何のために生きているかわからぬ。わからぬけど、お互い人間同士、そんなことわからぬわけで、それでも人として、うれしいことはうれしく、かなしいことはかなしいわけで、現在の私はただ生きているだけだが、でも「私は私、他人は他人」ではなく、「他人も私」かもしれない。そんな気がした。


今月の諸君でおもしろかったこと

2008-08-31 00:11:36 | 読書(興)

今日、来月号の「諸君!」が届いたので、よんだ。久しぶりに読んだが、久々に面白い記事が多かった。いつも目を通すのは、「紳士と淑女」と「ネット論壇時評」だが、今月は佐々木俊尚さんの記事がもう一つあり、ブロガーとの対談がなかなか良かった。私はここ5年くらい前から戦中派に注目し始め、ご先祖様や近所の爺さんの戦争体験を直接、間接聞いているうちに、なかなか興味を持ち、伊藤桂一さんの小説の面白さをわかり始めた。

だから、記事の中で、失われた世代が戦中派に惹かれるというのは直感的にわかる。理屈じゃなく、共感する。 限りなく共感する。

なかでも、伊藤桂一さんの戦争小説って、多くの人に読んで欲しいと思う。

なぜかというと、私は、自分が今こうして生きている訳がわからない。

だから、「本当の自分」を知りたい。そして、本当の自分を知るために、自分なりに幾らか努力した。その努力はうまくいかなかった。そして、自分探しをあきらめて、一からやり直している。そして今、「一からやり直すのって大変だ」と思いつつ、理由もなく生きている。これが今の自分だ。

そこで、まず思い返して、「何のために生きているのかわからんが、とりあえず、与えられた縁を大事にすることから始めよう」って思っている。同時に、現在、私の同年代の一部が、それぞれの仕方で自分探しを続けていることに対して、同年代として共感する。こういう思いって、戦争に行った日本人同士の気持ちのつながりほど強くはないけど、心のどこかで、他人事にはできない。

苦行者みたいな自分探しの旅。自分を肯定してくれるものがない、っていう悩みは、贅沢な悩みだけど、何か、さすらいの風情を感じさせる切なさだ。使命感がない空虚さ。宗教につながっていくような存在意義でもいいから満たされたい。そんなものナイのは、とっくにわかってる。ナイけど、探してる。だから、気の毒と思う、けど、見つけたら私にも教えて欲しい秘密。だから、他人事にはできない。

なのに、インターネットの世界って、関係の仕方がキレギレでバラバラだから、すぐ付き合いが切れちゃう。一度切れた縁を取り戻せないのがインターネットのコミュニティ。みんなが集まればすごい力になるけど、あとは他人。「暗闇から来て、暗闇に戻る」のが運命。これがインターネットの結ぶ縁。

最後に伊藤桂一さんの一節を引用します。

頭を焼いてもらえた人はしあわせだった、と、私は思いました。八月二十日以降、守備体制が崩れてからは、私たちは確たる居所もない、草原の彷徨者となり果て、その日その日の運命で、野に屍をさらすことになっていたのです。生きのびたとしても、次の日、安心して死ねる陣地もないのです。そうした一寸先は闇の生き方だったのです。(伊藤桂一著、『静かなノモンハン』)


今までにない!小説

2008-03-23 20:13:10 | 読書(興)
下村湖人作『次郎物語』を読んでいる。

はじめて読んだ小説だけど、すごくリアルに感じる。

日常のひとつひとつの所作の積み重ねが、大きな意味を持ってきて小説を動かしているような作品。たとえば、吉川英治の『宮本武蔵』や司馬遼太郎のいくつもの作品や、山本有三の小説にもつうじるような、戦後においてあまり注目されることのなかったようなもの。

うまく言えないけど、自分が生きてるために普通に、自明なこととして、立ち止まって考えさえしないような所作が、その本人にとって、だんだん重要になってきてしまい、収拾がつかなくなるような事態も起きてくる。そういう、あってはならないことが、自分の身から出て行って、大きな波みたいになって本人を呑み込んでしまう。

作品中では次郎は、まるで、読む前からストーリーがわかってしまうような物語の登場人物ではない。

何と言えばいいのか。

予定調和的ではない。

よく、『金閣寺』を読むとわかるけど、読者にしてみれば、最初の十ページくらい読めば、その主人公がヒトクセありそうだと推測するわけで、題名も『金閣寺』だから、もうストーリーの展開の半分はわかっちゃったようなもので、それだけ面白さが減るわけで、『人間失格』の最初の数ページの描き方にしても、なんだか作者の太宰さんが登場人物に偏ったイメージを無理やり押し付けて、それを読者にも強要するような書き方をしている。

作者が登場人物にあるイメージを植えつけるような書き方をしている作品って、その作者を超えて物語が展開しないから安全だと思う。
そういうのが好きな人はそれでいいけど。

それに対して、下村湖人という人は名前もマイナーで作品もほとんど流布されない。けど、心の自然な動きや人間関係の難しさ、身の回りの困難、その中で自分らしくいたい自分とその切なさやらが、ストーリーの中ですごく読者にわかりやすく、共感できる形で示されている。そして次郎は作者や語り手の思惑から完全に自由である。だからこちらも自由に読める。

こういう面白さは、テレビ時代の人には伝わりにくいのだろう。