10月号は8、9月に比べ紳士と淑女が面白く、山折哲雄が大変面白かった。
10月号は8、9月に比べ紳士と淑女が面白く、山折哲雄が大変面白かった。
今、伊藤桂一『溯り鮒』を読んだ。生活感覚が肌に伝わってくるような小説だ。これが戦争を生き延びた人の文章だろうか。戦時中から当時(昭和39年)に至るまで文中を一貫する生活感覚がまるで何も変わらないような、淡々とした日々の連続ではないか。過去も未来もない、同じ現在がただ続いていく。それは取り残されつつ、自足を求めるような生活。これが人生かな。こういうものなのか。
こういうなかで、人としての幸福を追求する姿が空ろだ。でも最後の「鮒」ってのは少し良かった。
こういう作家は戦後を通して稀なんじゃないか。戦後の作家って、何かしらツッパリ気味だと思う。
今日も面接落ちた。「経験者じゃないから」が断りの理由。でもそもそも未経験なのに面接のチャンス与えてくれた以上、そのチャンスを活かしきれなかったのが私の至らなさであろう。
思うに未経験でも上手な自己アピールできれば、採用されるだろう。いはば「営業的センス」のことだ。
自己アピールが下手っていうのは会話能力の問題で、その基本は対話だ。一対一の問答。これが苦手。
対話するにはまず普段から相手の立場を尊重しなくてはならない。
コレが難しい。
たとえば「派遣社員の人」と思われているだけなら、もう人対人の付き合いじゃない。相手に対する敬意がない。「派遣社員の○○さん」ならまだいい。私みたいのは現実の職場では人として接するより、立場として接するほうを選んでしまう。「コンビニの店員さん」「駅員さん」「ハロワの職員」と、立場としてしか接しない。これでは人扱いではない。
人対人だと、時にぶつかりあうことしなくちゃならん。それが面倒で立場に逃げこんじゃう。けどそれじゃ通用しない。
困った。
私は人と話して気分爽快ってない。あるべきなのにない。その楽しみを知らないから、よくないのかなあ。わからない。たとえば、2chの書き込み読んで、すなおに面白いと思う。これと同じ自然さで人と対話が進まないものか。これからの課題だ。
毎日メディアを通して、トヨタだのダイハツだのマツダだのが「イマドキ」の若者や家族をそそのかすようなプロパガンダ的謀略放送的宣伝を一方的に流し(大人がピュンとくる新しいミラとか)、だから私はイマドキのクルマを買うというか、買わされるわけだが、同時に交通事故のリスクもこっちが負うわけで、仮に事故で加害者になったときの、心的苦痛は甚だしいものがあろう。特に、元来不器用で貧乏籤を引かされやすいものにおいてをや。
何度も言うようだが、火葬場で土下座する羽目になり、以後の法事にも欠かさず出席し、そのたびに悔やみきれぬ悔いと遺族の冷たい目線、嗚咽をしのばねばならぬ。車を買うとは、こういうリスクを負い続けること。そして、事故の加害者になったときは遺族に死ぬまで恨み続けられることを意味する。しかも、当の宣伝を流すメディアは、こうした事実関係などなきがごとく、一方でさんざん煽りつつ、他方で容赦ない人身攻撃をする。昔は飲酒運転でもメディアはこんなに騒がなかった。いつのまにか、犯罪者扱いでしょ。そのうち、わずかな運転ミスでもバッシングされるようになりそうだ。
車買いたくなくなるのも当然。というか、メディアの宣伝みて車さえあれば、と妄想しちゃう自分がイヤだ。商品や企業のイメージでわかったつもりになる。米国のような機能的に優れてる等の論理的説明がある宣伝ならまだいい。
今林大という人の行為は確かに犯罪。でも、メディアはその行為だけで人を裁く資格があるのか。彼にも親、上司、友人等いるわけで、うつむき加減で背中を見せて去って行く後姿が痛かった。
被害者の「赦せない」という気持ちはもっともだ。だが、メディアがでしゃばって被害者とともに加害者を糾弾するのはいかがか。
水木しげるさんが言ってたが、そもそも生きることを無上の価値としてみたなら、理不尽な死に方に反感を感じるのが当然だろう。だが自然や運命は理不尽なものでしょ。今まともにあるだけで恵まれているわけで、そのことに感謝と慎みを感じるのが自然だと思う。同時に被害者に一方的に肩入れした報道の在り方はやり過ぎだと思う。