これはどうでもいい、何を言いたいのかわからない、くだらない話なので、いい加減に聞いて欲しいのですが、今日、八木弥太郎著『ラバウル南溟記 戦場に果てし霊(みたま)よ安らかなれ』を読了した。この本は戦争へ行った一兵士の記録であり、苦しい時代と戦友に対する思いが熱く深く込められている。戦争とは無縁の時代に生きてる私が、仮にいま戦争でラバウルに行くことになったら感じるであろうような平凡な人間の視点から書かれており、遠い昔の話なのにすごく共感させられる名著です。
その中でいのちや魂について八木さんの独自の臨死体験を交えながら考察した箇所がある。その一節の引用です。
囁く声がする。すでに別の新しい人間の履歴が私のために用意されているのだという。
引用は戦後の混乱期に肺炎にかかり、死にかけたときの体験である。身体を離れた魂がどこか別の場所でそういう声を聞いた、という。
もしこの臨死体験を信じるなら、魂は肉体が滅んだ後も残っており、別の肉体に乗り移って、再び人間として生きていくわけで、言わば人間世界は輪廻の繰り返しになる。
こうして生きている私も、死んだ後で生前の記憶、思い出は消され、性別や家族構成、国籍などもリセットされるかも知れぬ。
とすれば、今の私とは全く別の人間になるわけで、別人の私は、生まれた環境から脳の大きさ、性別、何からなにまで違う。だから考え方、立ち居振舞い等も違ってくるだろう。ただ同じなのは、そういういろんな属性を与えられる以前の、元素みたいな、魂となづくべきもの。じゃ魂って何?と聞かれてもわからぬ。
けれど、元は同じはずの魂が、あてがわれる肉体や運命の違いにより、別人になるからには、「私は私、他人は他人」って区別は成り立たなくなる。「今の私と対立してるあの人は、元の魂が似ているかも」といえなくもない。
それから発展して、仮に八木さんの輪廻説が正しいならば、元の魂って、誰でも同じなのかも知れない。同じ魂でも、複雑な世間の仕組みのために様々な人間模様をなしているのかもしれない。
あるいは、勝手な想像だが、人間以外の蜘蛛や蟻だって、人間の知性や肉体や本能を与えて、人間の環境に住まわせられれば、脳の働きや指先の器用さといった能力も同じわけで、だから、現在の自分の目の前の蜘蛛や蟻は単に肉体だけは虫けらであって、もっと基本的な元素的な「何か」はヒトと同じものかもしれない。
常々口にするが、私は何のために生きているかわからぬ。わからぬけど、お互い人間同士、そんなことわからぬわけで、それでも人として、うれしいことはうれしく、かなしいことはかなしいわけで、現在の私はただ生きているだけだが、でも「私は私、他人は他人」ではなく、「他人も私」かもしれない。そんな気がした。