京都地方気象台観測の最高気温は7月14日から今日まで連続5日間38℃超え。 今日はとうとう39.1℃。
ついでに最低気温も12日から連続7日間25℃超えの熱帯夜。 YBR号で遠出するのは、ある意味危険ですらある。
なので、先日に地図を眺めてて、近くの目に留まった天皇陵へ行く。
何故だか、おっさんは暑い季節になると、妙に天皇陵に行きたくなる。 理由は定かではないが。
伏見区醍醐にある醍醐天皇陵。 見出し画像のGoogle Earth 中央上に見える、住宅地の中にある。
平安期の第60代 醍醐天皇 後山科陵 (だいごてんのう のちのやましなのみささぎ)。
直径45mの円墳。 陵の周囲は道路が一周してる。
近くにある第61代 朱雀天皇 醍醐陵 (すざくてんのう だいごのみささぎ)。 醍醐天皇の第十一皇子。 見出し画像の右下隅。
醍醐天皇陵より一回り小さい円墳。 こちらも住宅街の中。
醍醐天皇が(のちの)「山科」のみささぎで、皇子の朱雀天皇が「醍醐」のみささぎ。 少々ややこしい。
ちなみに、第38代 天智天皇 山科陵が「てんぢてんのう やましなのみささぎ」。
天智天皇陵の住所も、山科区御陵(みささぎ)御廟野町(ごびょうのちょう)。 さらにややこしい。
も一つ言うと、西京区の国道9号線沿いに「御陵」の地名があるが、こちらの読みは「ごりょう」。
「天皇の杜古墳」がある一帯。 これは第55代 文徳天皇の陵と伝承されているが、発掘調査では古墳時代の築造らしい。
文徳天皇陵は、幕末期の比定に従い、現在宮内庁によって右京区太秦にある田邑陵(たむらのみささぎ)に治定されているが、
古墳時代後期とみられる円墳であり、平安時代の陵墓としては不適当と考えられている。
先代の昭和天皇まで124代を数えるが、実際に天皇が埋葬されているのが確定してる天皇陵は半数以下であるという説がある。
確定してる陵の大半は、東山区の泉涌寺や右京区の天竜寺などに集中している、ごく小さな墓であるという。
天皇陵に限らず、陵墓の発掘調査は宮内庁が頑として許可しないので、真実は謎につつまれたままである。
本日は早々に帰宅して冷房の効いた自宅でゆっくり過ごすことにする。
5月27日にC56による北びわこ号の最終運転の記事を書いたが、その続き。
見出し画像は2009年頃、おっさん撮影の当時は梅小路蒸気機関車館でのC56 160。
北びわこ号の任務を終え、梅小路へ戻ってきたC56である。
同じ頃、機関庫で待機中のD51 200。
当時は車籍抹消されて、構内で展示運転をするのみであったが、昨年にめでたく本線復帰。 SLやまぐち号などで活躍してたが、
先日の西日本豪雨の影響で・・・ 以下wikipediaから引用。
「SLやまぐち号」運転終了後に梅小路運転区へ戻り、2018年(平成30年)夏からの「SL北びわこ号」を牽引する予定であったが
梅小路運転区への返却途中の広島にて西日本豪雨で被災。直接の被害は免れたものの、山陽線各地の土砂崩れなどの被害により梅小路運転区へも
新山口支所へも戻れない状況が続いている。
梅小路から山口へ回送予定のC57 1も当然アウト。 SLやまぐち号は牽引機がないので当分の間、運転取りやめ。
なので、今月の北びわこ号は急遽、C57 1が牽引することになった。
C57形は昭和12年から製造。マスコミ等では「貴婦人」と称されるが、おっさんはこの呼び方は嫌いである。
細いボイラに長い煙突、1750mmの大動輪の均整なスタイルであり、おっさんの好きな機関車ではある。
特にC57 5号機は晩年、山陰本線京都-綾部間で活躍。 当時小学生だったおっさんにとっては思い入れのあるカマであった。
昭和12年にC55形の63号機として製造が始められた機関車であるが、改良箇所が多岐に及んだため、検討の末に新形式とすることが決定され、
C57形として誕生した。 下画像は同じく梅小路で2009年頃に撮影したC55。 昭和10年製造。
外観上の相違はスポーク動輪からボックス動輪への変更くらい。 C55形は62両、C57形は201両製造された。
10:50頃に高月-木ノ本間、C57登場。 この1分足らずの撮影のために、片道3時間半ほどYBRで走った。
ヘッドマークが前回と違っている。 形式入りのナンバープレートはやっぱりカッコイイぞ。
米原方面行き223系電車が到着。 ミュージックホーン鳴らしまくりw 「どけどけ轢くぞ~」と翻訳するのがテツである。
帰途は湖西側、R8-マキノ-R161-R303-R367朽木経由で、結果的に琵琶湖一周。 何回目だろうか。
前回の湖北・菅浦訪問と合わせて給油トリップ439.1km 給油量7.25L 燃費はなんと60.57km/L。
久々に60km/L台を記録した。
本日の京都市の最高気温は38.7℃。 国内最高記録は同じ京都府の福知山で38.8℃で第二位。
市内に帰ってきての走行中は汗が全く引かないサウナ状態。 灼熱地獄であった。
今日も峠道を避けて、湖北へ向かう。 西大津BP-F558-F304の湖西側の湖周道路。
K333-F54-K557で海津大崎まで。
短いトンネルを4つ抜ける。
トンネル内は漏水が多い。
湖面沿いのワインディングだが、小さい法面の崩落がいくつもある。
つづらお・奥琵琶湖パークウェイ方面は崩土のため通行止め。 これは事前に情報収集済み。
菅浦へ向かう。 2017年10月18日のブログに訪問記があるので、参照していただきたい。
西の四足門。
集落に点在する 「第〇〇作業場」。
こちらの作業場は稼動中のようだ。 今月のカレンダーがあるし、機械類も健在なのがわかる。
以下、昨年10月18日のブログ記事のコピペ。
予備知識無しに来て撮影したが、これも帰宅後に検索したら、農機や工機でお馴染みの「ヤンマー」の家庭工場。 かつては第20作業所まであったらしい。
ヤンマーがこの地区の治産として始めたとか。 下請けではないが、部品を作って集積するシステム。 今でも数箇所は稼動してる由。
そう言えば地区の入口に小さなヤンマーの工場があったが、予備知識が無かったので撮影しなかったのは残念。
なので、忘れずに撮影してきた。 「ヤンマー菅浦農村家庭工業」の標柱。
新しい軽トラや軽バンが出入りしてるので、作業場で働く人も工場も稼動状況は良さそうだ。 経営が永く続くことを望む。
「ヤンマー」の社名は、豊作のシンボルである大型トンボの代表格 「オニヤンマ」にちなんで命名されたとか。
「ヤン坊・マー坊 天気予報」のフレーズが記憶にあるが、意外にも1959年から2014年まで55年間続いた長寿番組。
ヤンマーの理念がこの菅浦に厳然と存在してる。
集落を東端から眺める。
海津大崎ルートを西へ引き返し、R161 JR湖西線マキノ駅。 田舎の高架駅である。
カタカナで「マキノ」。 余談だが、この駅が昭和49年、国鉄時代に発足した時点ではカタカナのみの駅名は函館本線 「ニセコ」駅だけであった。
今では北海道のニセコ駅と石勝線・トマム駅以外は、桜島線 ユニバーサルシティ駅等々増えてきたが、外国語のカタカナ表記ばかりではある。
マキノ町は現在は合併により高島市。 町名は高島市マキノ町○○として残っている。
町名は、地域で最も著名な観光地であるマキノ高原スキー場(旧:西庄村牧野に所在)から付けられたもので、
自治体名に片仮名を用いるのは当町が全国で初めてであった。 (wikipediaより引用)
また話がテツの方へ脱線したw
R161を戻り、K23-朽木-R369- 安曇川を眺める。 水量はまだ多いか。
F40江文峠-F38からのF61雲ヶ畑方面へは通行止め。 F107持越峠も・・・
地元の方の不便さを懸念しつつ帰宅。
このたびの西日本豪雨災害により、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
不通だったJR奈良線も復旧。 F3宇治川ラインは当然のごとく通行止め。
いつもの岩船寺へ向かう。
細い道は至るところで、法面から水が流れている。 落石や折れた木の枝が散乱。
今日は細い道を避け、F33-R369へ戻る。 よく通るF184は通行止め。
R369沿いの小さな池で、睡蓮の花。
F4も柳生以北は通行止め。 東進して月ヶ瀬へ。
F82高山ダムの堰堤。 水位は平時とそれほど変わらない。 放流量はさすがに多い。
ダム湖の方状節理。
砂防ダム?の下の滝。
ダム下流は水量が多い。
JR関西本線月ヶ瀬駅。 築堤上にある。
駅構内の25パーミル勾配標。 加太越え区間ではないが、この辺りも急勾配がある。
R163を西進中、突然の驟雨。 レインウェアを着る間もなく一瞬にして濡れネズミに。
15分ほどで止んだ天気雨。
木津川の沈下橋もご覧の通り。 増水時は沈下してたであろう。
R163をおとなしく帰る。 当分の間、小さな峠道は危険なので行けそうにない。
ツーリングだからのんびりしたことを書けるが、現地の方々にとっては生活道路であり、
深刻な状況になっていることを考えると、申し訳けない気持ちになる。