@光秀が謀反を抱いたのは信長の意に沿わない者、決して失敗も許さない恐ろしさなど元家臣など周りへの厳しい処罰と苦痛を知り、光秀の将来に不安を描いたと言う説、また謀反は秀吉と企んだ説、公家衆との関係説も立ち切れていない。 大河ドラマはどのようなストーリーを伝えるのか見据えたい。
明治から昭和の巡査の給与変化(下記)を見てどう思うか。経済成長と共に一気に増えているが、その経済の立て直しをするべき政治家の力不足から近年給与は上がっていない(前回の投稿では2018年OECD調査で先進国日本だけがマイナス10%であった)。愚か新たな税金で懐は寂しくなるばかりである。 解決方法は2つ、自己改革と国政改革、 その自己改革とは1、転職 2、海外勤務 3、海外移住・転職である。国政改革は1、政党・政治家の入れ替え(中央から地方分権) 2、大胆な産業育成(斬新な産業街・人作り投資)3、格差改革(例:金持ちの金を市中に回す工夫)・・・考えればいくつも出てくるが。
『秀吉はいつ知ったか』山田風太郎
中国大返しに潜む秀吉の情報網とその裏にあっただろう権謀を推理する「秀吉はいつ知ったか」。福澤諭吉と榎本武揚の心理とそのすれ違いを考察する「その後の叛将・榎本武揚」。歴史的人物の評価の移りかわりや役割の大きさについて思いをはせる「大楠公とヒトラー」―天才伝奇小説家山田風太郎の発想がかいまみえる「歴史」をテーマにした文章を中心に編まれるエッセイ集。
- 明治7から昭和54年にかけて巡査の初任給の変化
- 明治7年 4円
- 明治39年 12円
- 大正9年 45円
- 昭和20年 60円
- 昭和21年 420円
- 昭和23年 2340円
- 昭和24年 3772円
- 昭和29年 7800円
- 昭和35年 10300円
- 昭和40年 20500円
- 昭和46年 40600円
- 昭和50年 81800円
- 昭和54年 99100円
- 日本紙幣の顔・歴史で異論お出ないクコ民的偉人は日本に一人もいない
- 日清戦争を謳歌した福澤諭吉
- 満州事変を欧米に弁護士た新渡戸稲造
- 権力者の持つ2つの死
- 権力を失った時
- 足利義政・徳川慶喜・西園寺公望・近衛文麿
- 生物的な死(病気)
- 藤原道長(癰)・平清盛(熱病)・源頼朝(脳卒中・落馬)・秀吉(肺がん)・家康(胃がん)、綱吉(麻疹)・岩倉具視(食道癌)・池田勇人(心筋梗塞)・大平正芳(心筋梗塞)
- 権力を失った時
- 明治日本の開国(外国人指導者総計3千人を招聘し、雇い入れた)
- 政治経済はイギリスから
- 軍事科学はドイツから
- 芸術はフランスから
- 若い立役者:西郷隆盛42歳・大久保利通39歳、木戸孝允36歳・福澤諭吉35歳・山県有朋31歳・渋沢栄一(29歳)・伊藤博文(28歳)・大山巌(27歳)
- 江戸の獄門・処刑
- 江戸時代実に20数万人が斬罪されており年平均4~5百人いた
- 鎖国による欠陥ある日本
- オリジナリティーのなさ(vs改良を加えて良質なものにする能力がある)
- 都市建造・美観的センスのなさ
- 異民族の掌握力のなさ(外交下手)
- 大楠公とヒトラー(英雄・悪魔)
- 楠公の「湊川出陣」=足利勢を正面から迎え撃つことで死を覚悟した「この上はさのみ異議を申すに及ばず」(勝てる見込は無いと悟、命令には反しない)=山本五十六 (お上には逆らえない=仕方が無い)
- 最後には自決したヒトラーだが誰から助けてくれると信じた重鎮達=石田三成
- 日本史の英雄譚 信長、秀吉、家康
- 信長・挫折の死であればあるほどその人の人生は完全型をなして見える。秀吉・全てを満足し切った型ちの死ほど不完全に見えるものはない
- 信長の人を視る目
蘭丸が重宝されたのは、周りに気を配ったこと。畳の「塵」に気づき摘み捨てた動作- 秀吉は愛嬌と「憎まれない男」、信長の「出るくいは打たれる」を知り尽くした
- 秀吉の術策
- 乱波(諜報員)を使い上杉謙信の動き・松永弾正の動きを事前に察していた
- 高松城攻めでも信長の死を翌日には知っての行動だった(城主の切腹と開城)
- 50日もかけて高松城を攻めているのは様子見だったのか
- 本能寺の変は6月2日、200km以上もある備中に3日の午後10時に知らせが届く
- 秀吉は本能寺の変を事前に予期し、姫路城等に金を用意していた
- 8日姫路出立、13日には光秀を仕留めている
- 赤穂浪士の残党大野九郎衛
- 浅野内匠頭(癇癪・短気)・吉良上野介(物欲)のぶつかり合い
- 忠臣蔵に名のない大野はいち早く赤穂から立ち去った忠臣の一人(常識人)
- 明石元二郎(斬新な行動力者)
- 明治時代の政治軍人、ヨーロッパ駐在陸軍武官(日露戦争後の革命を支援)
- 朝鮮憲兵隊長(朝鮮人を採用し治世)、台湾総督となる
- 日本人離れした武官、乱雑無比、奇想天外な行動をとることも
- 水戸・天狗党vs諸生党
- 斉昭・藤田東湖の革新派と上級藩士とのもつれあい、慶喜の異見で路頭に迷う
- 京へ向かった天狗党(352名)は1865年敦賀来迎寺で逆賊として大半が死刑となる
- 1869年天狗党の孫達による諸生党への復讐、市川三左衛門を磔に処す
- 明智光秀
- 信長(49歳)vs 明智光秀(55歳)
- 信長は仏教嫌い、坊主嫌いで一向宗などを蹴散らした(安土宗論)がその時の大将(佐久間右衛門)に対し何もしなかったことで追放される。また城を留守にしていた時侍女達が寺に外出したことを(出来心でも)罰し住職及び侍女を惨殺するなど家臣に対しても失敗をも許さない恐怖政治を行なっていた。 そんな中で光秀は家康の接待を安土城で行う役を仰使うが、信長から叱責を受け、役を交代させられる。(料理に使う魚の匂いが館中に広がったため魚を川に捨てたが、捨てた魚が腐敗しさらに異様な匂いを出したことで役を交代させられた)