「障害・障碍・しょうがい」という、過去にあげた文章において、自分が選ぶ表記の仕方、なんてものとその簡単な理由なんぞをあげたのですが。
その後、自分が使う文字表記について、感じたことをあれこれ。以下、箇条書きに。
1.「障害当事者」
「障害者」に関しては、わたしは自分が過去、他者にあてたメールをつらつらと読むに、「障害当事者」という表記を使っていることに気づく。「障害当事者」、これに対する者は「障害支援者」となる。意が通じていて略せる場合は、そのまま「当事者」「支援者」となる。
他には、「障害をもつ人」、「障害がある人」、などと表記することが多い。「知的障害者」に関しては、「~的」が「障害」にかかってきている感を勝手に持っているという感覚。「知的な障害をもつ人」という表現も使用。この傾向は「障害児」に関しても同様。
「『障害者』という言葉を避ける」というよりは、そのときの自分の使う思考に基づいたり、そのときに主旨として持つことの意味に応じて「出てくる」というのが率直な感想。
2.「子ども」
「子供」「子ども」と、表記に関しての説や感覚はいろいろアリ。
わたしが現在、表記として「子ども」を使用しているのは、自分自身を指す「私」を「わたし」と表記するのと同じ理由。ひらがなの柔らかい感じが好きだから。
3.「記事」
ブログを始めて、当初はかなり気恥ずかしかった、自分がブログ上に更新する文章のひとつひとつを指す「記事」という言葉。
そのうちに慣れてしまった。特に、過去の自分のあげた文章のことを指すのに「過去記事」という言葉はとても便利。
しかし、最近、また急に、気恥ずかしさが復活。これはブログを使わない人からどう見えるのか、なんてことを感じてしまったため。
「インターネットはつなぐがブログの閲覧は習慣として持たない」という人に、自分のブログアドレスを教えられない気恥ずかしさの一つに、自分が「記事」という言葉を多用しているということも小さく要素に入っていることに気づく。(いや、一番恥ずかしいのはブログ名なんだが…)。
ちなみにここであげた「辞書」を提供しているgooの「gooブログ」では、「ブログの使いかた」というページにおいて「ブログとは」や「基本的な使いかた」の説明でいきなり「記事」という言葉が使用されており、「記事」という言葉に特に説明は無い。「ブログ用語集」でも、特に記載無し。
「見慣れない表記に、その意味を疑うより慣れろ」ということの一つの現れかな、とも思う。
この、問答無用の「慣れ」のようなものに、少し距離をおいてみたいと今は考えているけれども、また感覚は変化するかもしれないというのが現在の心境。
その後、自分が使う文字表記について、感じたことをあれこれ。以下、箇条書きに。
1.「障害当事者」
「障害者」に関しては、わたしは自分が過去、他者にあてたメールをつらつらと読むに、「障害当事者」という表記を使っていることに気づく。「障害当事者」、これに対する者は「障害支援者」となる。意が通じていて略せる場合は、そのまま「当事者」「支援者」となる。
他には、「障害をもつ人」、「障害がある人」、などと表記することが多い。「知的障害者」に関しては、「~的」が「障害」にかかってきている感を勝手に持っているという感覚。「知的な障害をもつ人」という表現も使用。この傾向は「障害児」に関しても同様。
「『障害者』という言葉を避ける」というよりは、そのときの自分の使う思考に基づいたり、そのときに主旨として持つことの意味に応じて「出てくる」というのが率直な感想。
2.「子ども」
「子供」「子ども」と、表記に関しての説や感覚はいろいろアリ。
*はてなダイアリー:子ども ■表記の問題について初めてこの問題にふれたのは、子どもが通う小学校の広報委員の仕事をやったとき。前年度の役員さんから「『子供』は不適切漢字であるので使用しないように」と申し送り。一同「えええ???」。しかし納得のいく説明は無し。多分、特に理解されないまま、申し送り事項であったと思われる。わたし自身は口ぽかん。
*えっ!「子供」って差別表現だったの!? / “差別用語”と呼ばないで
*「子供は」差別語?
わたしが現在、表記として「子ども」を使用しているのは、自分自身を指す「私」を「わたし」と表記するのと同じ理由。ひらがなの柔らかい感じが好きだから。
3.「記事」
ブログを始めて、当初はかなり気恥ずかしかった、自分がブログ上に更新する文章のひとつひとつを指す「記事」という言葉。
そのうちに慣れてしまった。特に、過去の自分のあげた文章のことを指すのに「過去記事」という言葉はとても便利。
しかし、最近、また急に、気恥ずかしさが復活。これはブログを使わない人からどう見えるのか、なんてことを感じてしまったため。
「インターネットはつなぐがブログの閲覧は習慣として持たない」という人に、自分のブログアドレスを教えられない気恥ずかしさの一つに、自分が「記事」という言葉を多用しているということも小さく要素に入っていることに気づく。(いや、一番恥ずかしいのはブログ名なんだが…)。
きじ 1 【記事】やはりこれが一般的な感覚だと思う。ブログを自分の媒体として持つ人に、ここでいう4番目の意味として「ブログに更新していくひとつひとつの文章を指す言葉」という「常識」があるんだろうと思う。
(1)新聞・雑誌などに報道されている事柄。また、その文章。
(2)事実をありのままに書き記すこと。また、その文。
(3)「記事文」の略。
ちなみにここであげた「辞書」を提供しているgooの「gooブログ」では、「ブログの使いかた」というページにおいて「ブログとは」や「基本的な使いかた」の説明でいきなり「記事」という言葉が使用されており、「記事」という言葉に特に説明は無い。「ブログ用語集」でも、特に記載無し。
「見慣れない表記に、その意味を疑うより慣れろ」ということの一つの現れかな、とも思う。
この、問答無用の「慣れ」のようなものに、少し距離をおいてみたいと今は考えているけれども、また感覚は変化するかもしれないというのが現在の心境。
「記事」という言葉、僕も当初は実に気恥ずかしかったことを記憶しています。いや、今でも気恥ずかしい。理由はS嬢さんが書かれた通りです。しかしながら、他に代替する言葉も思いつかず慣れたので以前よりは抵抗感がなくなりましたが。
「記事」という言葉を選んだのは消去法です。他に言葉としては「日記」という言い方がありました。しかしながら自分の書いていることは日記ではない。毎日書いていないし日々のことも書いていない。コメントで「日記面白かったです」と書かれるともう声を出してしまうほど複雑な心境になります。また、「日記」と呼ばれることに抵抗を感じている自分にヘンな自負心みたいなものも感じられて自己嫌悪にもなります。
(えーっと「S嬢のPC日記」というブログタイトルは秀逸だと思っています。「日記」という言葉に様々な思惑が感じられてしかも語調がいい。言い方が悪くてごめんなさい。誤解しないで下さい)
他にも「エントリ」という言い方がありますが、これも「さーこれからネットの大海で一言物申すぞ、言論の世界に登録申請するぞ」という感じがして書きにくい。そもそもサイドバーのENTRYは「見出し」という意味で使われていると思われますし。また「書き込み」「カキコ」とするとコメントみたいですしネット慣れしているみたいでこれも躊躇します。さりとて「駄文」「拙文」などと書くのは本当にちゃんとした文章が書ける人が言うことのような気もして。
結局「記事」に落ち着いていますが今でも思い屈しています。新聞記事に代表される「多数の人が読むに値するもの」と見られたらどうしようか、などと。或いは私的な文章に「記事」は相応しくないのではないか。S嬢さんの引用による「事実の記述」には当たらない可能性もある(自分を嘘つきだと言っているわけではないですが、移ろいゆく個人的な感想って事実と言い切れるのか)。難しい。なんかいい言い方ないかな。
他にもネット用語、ブログ用語で抵抗感を感じるものが多々あります。慣れていないだけなのでしょうけれども。
本当はもっと内容が深いS嬢さんの記事なのに最後の部分だけに食いついてすみません。
いや、全ての表現に手をたたいて共感。
なんというか、言葉を否定しているわけじゃない、なんとも言えない、なんか居心地の悪さがあるんですよね。
それをなんとか押し込めていくと、
そう、例えば、駅近物件を選んで日当たりは東南で妥協、とか、収納が少な目だけどリフォームはきれい、とか、そんな感じで、押し込めていくと「記事」が残る。
慣れていくのはいいんだけれど、その慣れの「軌跡」くらいは、自覚しておきたい、ってとこが最終的な選択かもしれない。
>さりとて「駄文」「拙文」などと書くのは本当にちゃんとした文章が書ける人が言うことのような気もして。
これは、なんかもう、かゆいところに手が届く、というか、そうなのそうなんだそうなんだよ~~と、共感しましたね。
ところで、はじめまして。
今、訪問してきました。
力強い文章の数々にインパクト強かったです。
音楽ネタをどど~~っといくつかまとめ読み。
ん?同世代?という共感が、まとめ読みのパワーに拍車をかけました。
いや、コメントありがとうございました。
力強い記述のブログと出会うことができて光栄です。
用語も表現も、時代時代で最も適切、かつ大多数が共有してますからのガイドラインが自然とできあがってゆくのだと頭でわかっちゃいても、慣れてる馴染んでる慣れてない馴染んでない、こういうのはどうしてもありますよね。(笑)
ご高齢の方と会話していて「おめくらさん」なんて言われると意味わかりますが、そしてその表現を用いることが、そのままそっくり侮辱や罵倒に直結しているーーと語気荒く訂正する人に対しての方が、私だと抵抗感じてしまいますね。使う表現よりも、云っている中身に耳を傾けたいものです。
まあ、あと、馴染まない表現はムリして使う必要もなく、また他人に表現を強いるものでもないですね。ちょっとしたアドバイスで一言指摘するぐらいは問題ないと思いますけど。アドバイスだったらいいんじゃないかな。と思いますね。押し付けるとつらいなあ。押し付けられるって感じる人の立場を想像すると、聞く耳持たないような気がしますし。
とりとめもなく。こんばんわ~。
非常に同感。
安易な「言葉狩り」よりも、中身ですよね、中身。
実はね、ず~~っと引っかかってることがあって。
どう表現しても、どうにも理解されないんじゃないかと思って、黙る。
被害妄想だと、思われるのが関の山、なんだろうな、と。
それはね、障害児余暇支援事業で娘についてくださったボランティアさんの一言なんですよね。
娘に対しての感想として、「慣れてるのね」とくり返す。
何に、って主語が無いわけですよ。
言い方や、前後の文脈から言って、「支援に慣れてる」というよりは、「人に慣れてる」という風に聞こえてしまうんですよね。
つまり、感じさせられた感覚は、(その言い方、まるで犬や猫に使う「慣れてる」みたいだ…)。
って、そういう感触を持っちゃったんですよね。
相手は、褒め言葉で使ってるんだ、というような感じで、わたしが曖昧に微笑みを返すのみというリアクションに満足できなかったみたいで、何度も何度も繰り返されるんですよ、「慣れてる」とね。
でも、何度くり返されても、「慣れてる」に主語が無いんだな。
「かまってやった」的、いい人的スタンスの姿勢から来るってことも、どこか、この言葉に引っかかったポイントなんだと思う。
それでも何も言えないんですよね。
善意を発端にして、支援という立場に「なってくださった」わけですから。
優越のもとに「上から下へ」的感覚を持たせられながら受け取った、この「慣れてる」。
なんだか、なんとも言えない気持ちでしたね。