ブログ論というもの、ブログに関して書いてみる、ということなら、わたしもいくつかアップしてきた。何故書くか、それはブログという媒体を使っていたら、自ずと向かい合わなきゃいけないことが出てくる。そのことについて考察していくということはおもしろいからだ。
ブログという媒体を使っていたら、トラックバックについて考えなきゃならなくなる。「送信」に関してもそうだけれど、突然入ってくるトラックバックに対してどう向き合うか、ということを考えなきゃならなくなること。これがブログという媒体を使っていれば自ずと起きてくることだからだと思う。
興味深いもの、受信をありがたいと思うもの、これに関しては迷うこともない。ただ、「何故、これがこの記事に入るのか」という、発信者以外には理由がわからないトラックバックというものも入ってくるものだ。
どう考えても、誰が見ても「スパム」というものだったら特に迷うこともなく削除すればいい。ただし、自分には関係ないと思えても、第三者が見て共通項を見出すものか、そのトラックバックは妥当であると思えるものか、こうした考察が必要になってくるほど、一度入ったものを削除するのは神経を使う。
そんなときに知りたいのは、第三者の感覚だ。トラックバックというものをどういう風に位置づけているのか。そんな文章を読むと、その文章の中に共感と異論とを自分の中に見つけることができる。その見つけたものを材料に、自分にとっての価値観を見つけ、自分のところに入ったトラックバックに関して再度向かい合うことができる。指針ができれば対応は楽になる。
そこで、そのまま「一件落着」にするか、そこで得た指針を書き残すか。書き残した場合、そこで「自分のブログ論」ができあがる。それをまた誰かが閲覧したときに、その人にとっての「ブログ論」が始まる。
ブログという媒体を使わない人に「ブログ論閲覧フリーク」が存在するのか、それはわからない。ただ、ブログという媒体を使っている人には、誰かが書いた「ブログ論」は何かしら必要になってくるものだと思う。それはトラックバックという機能だけに限ったことではない。書きたい、書き残したい、書き残したものに反応が欲しい、読みやすいブログとは、読みやすいブログのデザインとは、など、あげていけばキリがない。そうしたことに対して出てくる思いや疑問に対して、「ブログ論」はある種の発見を与えてくれることは多いと思う。
「ブログ論」を中心に書き続けている人の存在は、ある意味ありがたい。ひとつのテーマというのは書けば書くほど、その視野や質が向上していくのが自然だと思うからだ。この人のブログ論とあの人のブログ論とどちらの指針を選択するか。そんな選択が生まれていくほど材料が増えていくのも読み手にとってはありがたい。
アクセス解析から見えるもの では以下のように記載。
ただ、ブログ論のアクセス数にだけモチベーションを持つのならば、それは危険だとも思う。書きたいことを書き、そこに自分を記し続けていくのは自分の発見につながる。アクセスが欲しい自分だけが見えていくのは少し虚しい。短いスパンでアクセス数が山になることだけを追い求めるのならば、自分にとって大切な「読まれない文章」の方が価値がある。後者は短いスパンで読まれなくても、書く意義があるものならば、検索によっていつか誰かに発見される。たった1人に発見されて、たった1人にその文章の存在意義を見出されること。このことはアクセス数に関わらない価値があるものだと、わたしは思う。わたし個人は、実は、こうした「短期では読まれないが、実は価値のあるもの」が好きだったりもするのだけれど。
そうしたことを前提の上で、ブログ論を書きたい、という方には、どんどん書いていただきたいとわたしは思う。それはブログという媒体を使い始めたときに、「ブログ論」という文章が存在することがわたしはありがたいと思ったからであり、また今日明日、そのブログ論から発見が生まれる人が存在すると思うからだ。意義があるものが公開されることはネット上の財産になる。
以上、ブログ論は読まれる?/Blog向上委員会 で投げかけられた疑問に対して、わたしが思ったわたしからの返答です。疑問に対しての返答としては多少とんちんかんかもしれないが、受け取っていただければ幸いと、トラックバック送信します。
ブログという媒体を使っていたら、トラックバックについて考えなきゃならなくなる。「送信」に関してもそうだけれど、突然入ってくるトラックバックに対してどう向き合うか、ということを考えなきゃならなくなること。これがブログという媒体を使っていれば自ずと起きてくることだからだと思う。
興味深いもの、受信をありがたいと思うもの、これに関しては迷うこともない。ただ、「何故、これがこの記事に入るのか」という、発信者以外には理由がわからないトラックバックというものも入ってくるものだ。
どう考えても、誰が見ても「スパム」というものだったら特に迷うこともなく削除すればいい。ただし、自分には関係ないと思えても、第三者が見て共通項を見出すものか、そのトラックバックは妥当であると思えるものか、こうした考察が必要になってくるほど、一度入ったものを削除するのは神経を使う。
そんなときに知りたいのは、第三者の感覚だ。トラックバックというものをどういう風に位置づけているのか。そんな文章を読むと、その文章の中に共感と異論とを自分の中に見つけることができる。その見つけたものを材料に、自分にとっての価値観を見つけ、自分のところに入ったトラックバックに関して再度向かい合うことができる。指針ができれば対応は楽になる。
そこで、そのまま「一件落着」にするか、そこで得た指針を書き残すか。書き残した場合、そこで「自分のブログ論」ができあがる。それをまた誰かが閲覧したときに、その人にとっての「ブログ論」が始まる。
ブログという媒体を使わない人に「ブログ論閲覧フリーク」が存在するのか、それはわからない。ただ、ブログという媒体を使っている人には、誰かが書いた「ブログ論」は何かしら必要になってくるものだと思う。それはトラックバックという機能だけに限ったことではない。書きたい、書き残したい、書き残したものに反応が欲しい、読みやすいブログとは、読みやすいブログのデザインとは、など、あげていけばキリがない。そうしたことに対して出てくる思いや疑問に対して、「ブログ論」はある種の発見を与えてくれることは多いと思う。
「ブログ論」を中心に書き続けている人の存在は、ある意味ありがたい。ひとつのテーマというのは書けば書くほど、その視野や質が向上していくのが自然だと思うからだ。この人のブログ論とあの人のブログ論とどちらの指針を選択するか。そんな選択が生まれていくほど材料が増えていくのも読み手にとってはありがたい。
アクセス解析から見えるもの では以下のように記載。
更新時点でやたらにアクセス数を稼ぐ「ブログ論」的なものは、日がたってしまえばほとんど入ってこないのはおもしろいといえばおもしろい。瞬発的な力、というものなんでしょう。わたしとしては「ブログ論を語る」というよりは、ブログという媒体にふれることに関しての「思いつき日記」のようなものなので、この現象に対しては特に異論無し。これは「ブログ論とはそんなもの」というよりは、「わたしの『思いつき日記』程度のものはそんなもの」という位置づけ。変な言い方だが、ブログという媒体を使っている人なら、ブログ論は誰でも書ける。ブログ論を書き続けている人のブログのブログ論は、思考に実績が伴っていき、ある意味「ブランド化」されていく。そうした人のブログ論の過去記事は、アクセス数が少なくなっても生き続けるものだとわたしは思う。鮮度の高い更新がされていくことは、その文章が、またブログという媒体を使うことで出てくる誰かの迷いに対応する機会が生まれていくことでもあると思う。
ただ、ブログ論のアクセス数にだけモチベーションを持つのならば、それは危険だとも思う。書きたいことを書き、そこに自分を記し続けていくのは自分の発見につながる。アクセスが欲しい自分だけが見えていくのは少し虚しい。短いスパンでアクセス数が山になることだけを追い求めるのならば、自分にとって大切な「読まれない文章」の方が価値がある。後者は短いスパンで読まれなくても、書く意義があるものならば、検索によっていつか誰かに発見される。たった1人に発見されて、たった1人にその文章の存在意義を見出されること。このことはアクセス数に関わらない価値があるものだと、わたしは思う。わたし個人は、実は、こうした「短期では読まれないが、実は価値のあるもの」が好きだったりもするのだけれど。
そうしたことを前提の上で、ブログ論を書きたい、という方には、どんどん書いていただきたいとわたしは思う。それはブログという媒体を使い始めたときに、「ブログ論」という文章が存在することがわたしはありがたいと思ったからであり、また今日明日、そのブログ論から発見が生まれる人が存在すると思うからだ。意義があるものが公開されることはネット上の財産になる。
以上、ブログ論は読まれる?/Blog向上委員会 で投げかけられた疑問に対して、わたしが思ったわたしからの返答です。疑問に対しての返答としては多少とんちんかんかもしれないが、受け取っていただければ幸いと、トラックバック送信します。
実は今の今までブログ論がこうも瞬発性だけを伴う種類だということに気づいていなかったのです。これだけ思う節がありながら。
それとここ最近、本当にブログ論なんて書きたいのか、という疑問があったのです。文章を書きたいという欲求はある。でもブログ論を書きたいかと言えばちょっと分からない。ブログに関してのテーマばかり扱うブログをやっていて、ネタを探すためにブログ論を読む。ブログ論が好きで探しているのか、「blog向上委員会」で記事にするために他人のブログ論を読んでいるのか、分からなくなっていたのです。
もちろんアクセスだけを求めているわけではないけど、このブログをやることで自分の何になるのか、そんな自問自答が頭をよぎるのです。
数じゃないんですよね。アクセス数=読者じゃありませんよね。
なんだかよく分からないですね。でもありがとうございます。
こりゃヤバイ。
と思って、あわてて記事上げしたのがこの記事です。
けっこうあわてて上げたので、ボロが出そうだったら見逃してやってください。
以前、心理学を学んでいたときに、基礎心理学の実験において、講師が何度も何度も言っていたことがとても記憶に残っていまして。
「あなたたち1人1人が実験において得るデータは人類共通の財産なんだ」とね。
なんでもない実験なんですよ、錯視のデータを取るような。
でも、人間の脳を科学的に解明しようとする実験は、そのひとつひとつのデータが貴重であり、
ってことから上の発言につながっていくんですけどね。
ネット上でも、わたしはそのことが言えると、そう思うんですよ。
個人が書いたものが公開された場に上がったら、それは誰かにとって価値のあるものなら、それはその書き手個人を超えて、ネット上の財産として存在をはじめるんだと思います。
だからわたしは、閉鎖・休止時に、データ全てを消してしまうことには、反対論者という立場なのだと思います。
誰かが「うん、こりゃ有益な情報で、何かの役に立つかも?」あるいは「私はこんな情報に興味を持ったよ」でも、受信に対し発信のチェーンリアクションがあることは、トラックバックの醍醐味なのかな?と考えてます。
ご丁寧にコメントリターンありがとうございました。余談ですが、親父は後天性のアクシデントで片側の聴力を完全に失った人みたいです。はりたおされたのは3歳前後のデキゴトですよ。のちのち、ハンデのある人ゆえに(かどうか万人にはあてはまらないので、一般論ですけどね)親父の感情移入がじゃっかん多く、投影していたのかもな。と考えたりしました。ちなみに、ありがたいことですが母親はハンデの児童の教師をしており、母親も厳しかったですね。じろじろ観ちゃいけんという表現ではなく、「あら、あの子ハンデなのね」ってな顔してました。見慣れればそんあもんでしょう。私も親類のハンデの子や道や駅で遭遇するハンデの状態にありそな感じの人に対しては「あ、」ぐらいしかないですね反応として。総数の問題でしょ。目立つんですよ。大多数だと目立たないのにね。(笑)
というトラックバック、最近はわたしのブログではあまり受信しなくなりました。
映画、ドラマ、有名人などといった、共通ワードが起きやすいものにこうしたトラックバックを受信しやすいようですが、そうとばかり決まったものでもないようで。
以前、入ったもので、文中に「ヨックモック」と入れただけで、デザートがどうのという内容の文章がトラックバックされてきたことがありました。
いわゆる大量トラックバックされた結果だったのですが、記事自体が雑学としておもしろかったので、削除せず、そのままトラックバックされたものとして残しました。
トラックバックの醍醐味は、わたしは読者として、大きいと思っています。
自分が興味を持つ文章を読んでいて、そこにトラックバックが入っていて、そのトラックバック記事がさらに興味をかきたてるものだと、連鎖でいろいろなものを知っていけるのはいいなあ、と素直に思いますね。
相手にトラックバック送信により「届ける」という意味で、ですが。
最近ではアクセス解析をつけているブログが多く、リンクを貼ったら、たいがい相手に「伝える」のと同様の状態になる。
だからリンク通知程度以上のものを自分が記せない場合は、トラックバック送信はしなくていいか、なんて思いますね。
この記事に関しては、「届けたい」という意志を持ったので、トラックバックをしたものです。
nory11さん、ブログアドレス入れてくださったなら、トラックバック送信記事執筆に挑戦するのになあ。
さて、「コメントリターン」。
息子の反応に関してですが。
行動が奇異、という場合は、やはり難しいですね。
「あ、」で終わるというよりは、次の動向など見守ってしまう。
この手の場合は、見るなっていって見ない、って方が、妙に不自然になってしまったりするので、相手及び相手の身内に聞こえてもヤバくない言い方で会話をしたりします。
「きっと~だからかもしれないよ」とか「○○くんみたいな感じだね」とかね。
よくわからない。でも基本は、相手に不快感を与えないかどうか、ってとこの視点かもしれない。
「見ちゃう」って意味では、格好がインパクトがある人、例えば露出度が高い人だとか、駅のホームでものすごいゴスロリだとか。
そういうときに、「わあ」とか言って見てると、息子に引っぱたかれます、「失礼だろ」と。
「え? だって、見られたいってことだから見ていいんじゃないの? ダメ? ダメ?」などと返し、息子の価値観、もうフラフラです(笑)。
で、さっそくなのですが私のブログはTB受信不許可設定になっております。アクセス分析もしておりません。(笑)この二つに関しては必要性を感じる感じない以前の単純な動機として「読む・書く」総数が限られていて多くないことと運営方針におけるテーマが日々日常に終始した内容ですので「多くの人に共有されると有益」な情報になるんかな?現段階では「NO」なのです。まーそもそも「べき」じたい、私は理解不能なのですが、、、(笑)
夏場、駅の階段で女子高生が短いスカート姿、うしろにもっぱら男性が目線を・・・こういう場面、よくありますよね。「無断で触る」のに比べれば「ついなんとなく目についてしまう」のは、可愛いものだと思いますよ。まあこれは私の性別が女性ゆえに、少女時代をふりかえる視点で浮かんでくることかもしれません。主観と客観がごちゃまぜになるとああでもないこうでもない、きりがなくなっちゃいますね。はい、このコメントもそうです。(笑)
表現の小技がすっかりツボでした。
読者一名追加です。