内田樹教授が、ネット社会に関する取材に応えた話です。この分析は、日本の現状をよく考察しているので一部ですが再録します。義務教育、高等教育における問題点を言い当てているように感じます。理化学研究所の問題にも通じるかもしれません。
学力テストの結果を公表する教育委員会にも是非読んで欲しいものです。
<内田樹教授の分析>
―お話を伺って、この集合知を機能させるというのが、ネット世代の「知のありよう」のように思ったのですが、しかし、現実はネット依存やネットの繋がりで疲れている若い人たちも多い。どうしてこのようなことになったのでしょうか?
サッカーとか、ワールドカップの様子を見ていると、「日本戦見てない奴は非国民」みたいな攻撃的な同調圧力が異常に高まっていましたね。全員が同じものに、同じように熱狂することを強制する。この同調圧力がこの20年くらいどんどん高まっている。
均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。
子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。
問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。
見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。
彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。
―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?
教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。
でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、何度も言っているように、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。
僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。
ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。
今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。
文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。
―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。
今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。
僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。
この仕組みを何とかしないといけない。そのために学校教育とは別のラインに、若い人たちの市民的成熟を支援する場を立ち上げなければならないと思って凱風館という私塾を僕は始めたわけです。でも、こういうことを考えたのは僕一人ではなくて、ほとんど同時期にまわりの友人たちも次々と私塾を立ち上げて若い世代のための教育事業に取り組んでいます。鷲田清一、平川克美、釈徹宗、名越康文、茂木健一郎・・・みんなこの二三年の間に、凱風館と相前後して私塾を開設しています。そういう流れが来ているんだと思います。
ネット社会というのはどういう「ハブ」に繋がるのかで力量が問われるわけです。「誰に繋がっているのか」ということが死活的に重要なわけです。ツィッターがそうですけれど、「誰をフォローするか」によってその人の情報リテラシーの質が決定される。数百万の発信者のうちから、良質な情報発信源を「この人」と特定するためにはそれなりの力が要ります。そして、自分自身も流れ込んでくる無数の情報の中から「これ」というものを選別して次に流してゆく。そういう何層かのスクリーニングを通過して伝播した情報は良質のものと見てよい。これも集合知です。複数の人のピア・レビューを経て伝播する情報は信頼性が高い。
ジャンク情報というのは情報のスクリーニングを経由しない情報のことです。均質的なイデオロギーや言葉づかいの人たちの間だけで共有されている情報は、どれほど拡散していてもいずれ厳密なレビューには耐えられない。だから、情報の階層化は急速に進行することになる。
ネット社会では「誰とネットワークを結ぶか」という集団の選択がその人の情報リテラシーだけでなく、その後のキャリアパスの広がりや、社会的地位までをも決定することになります。
個人ではなく集団が社会的活動の単位となるべきだというのは人類史的な経験知ですが、それが現代ではさらに切迫したものとなってきたということでしょう。
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