“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

安倍、自民党政権の外交、安保政策

2013年06月11日 10時55分37秒 | 臼蔵の呟き

非常に面白い現状分析です。内田教授の分析は、なかなかユニークで、まとを得ていると思います。日米安保条約(軍事同盟)に縛られて、政治経済、外交、すべての分野でアメリカの意向、ご機嫌を伺いながら、自民党政権が政策決定を行っています。自らの意思は別なところにあり、別な主張をしていても、アメリカ政権、アメリカの政治実力者の発言に従う、右往左往しているのが自民党、安倍、安倍政権です。自民党政権の外交政策に自主性がないとはよく言われることですが、内田教授によるとそもそも想像する、他の道を思考することを(自ら)禁止しているのですから、自主性、アメリカを抜いた外交政策などはありえないことになります。

原子力発電所、原子力エネルギー政策、TPP交渉、新自由主義経済、大手企業の経営方針などなどはすべてアメリカ政権、アメリカ政界、アメリカ多国籍企業の指示、支配下で許される範囲で、提起、実行されているといえます。

安倍政権は、小学校から英語教育を行うことを検討しています。馬鹿さ加減もここまで来れば狂っているとしか言いようがありません。しかし、彼らの思考方法、言動、知能では当然なのかもしれません。その一方で、美しい国、世界に誇る国「日本」とか時代錯誤のように念仏を唱えています。矛盾していることを理解できないほど唯我独尊なのかも知れません。

アメリカ抜きの日本外交はありうるか?<内田樹教授の考察>

問いに対する答えはもちろん「No」である。

そもそも日本外交が「対米従属である」と思っており、それを「何とかしなければいけない」と思っている人は日本の外交政策の決定過程には存在しない。
存在しないのだから、「アメリカ抜きの日本外交」が構想されるはずがないし、実施されるはずもない。
構造的に「そのことについて考える」ことが禁じられているのである。
一国の外交戦略について、これほどの抑圧がかかっているのは歴史的に見ても例外的な事例であろう。
独仏は普仏戦争から70年間に3回戦争をして、延べ数百万人の同胞を犠牲にした。独仏国境に「満目これ荒涼惨として生物を見ない」惨状を見た両国民が「もう戦争をしない」ために手作りした同盟関係がEUである。
誰に強制されたわけでもない。両国民がその主体的意思に基づいて「もう戦争をしないために手作りした」関係である。
ということは、絶えず「次の戦争」を回避するための手立てを尽くしているということである。

それが日米関係との決定的な違いである。

日米同盟は「もう戦争をしない」ために日米両国が手作りしたものではない。
アメリカが日本に「もうアメリカを相手に戦争をさせない」ために与えたものである。
それ以外の選択肢が許されなかったために、日本は戦後一貫して日米同盟基軸の外交を展開している。
だが、これは日本国民の主体的決意によるものではない。
現在67歳以下のすべての日本国民は、自分たちが安全保障についても、国防構想についても、「アメリカの許諾抜きで」政策を起案できるという可能性は「ない」ということが常識とされる環境に、生まれてからずっと暮している。属領に生まれた属領の子たちである。それが「自然」だと思っている。
それ以外の「国のかたち」がありうるということを想像したことがない。
というか想像することを制度的に禁じられている。

日米同盟基軸という外交戦略が選択肢として適切であるかどうかという「合理性」問題と、それ以外の外交的選択肢を構想するために知性を行使する自由があるかどうかという「権利」問題は、別の次元に属している。
日米同盟基軸という外交戦略は、日本の国益を勘案した場合、きわめて合理性の高い選択肢である。
けれども、「それがきわめて合理性の高い選択肢である」ということと、それ以外の選択肢を吟味することが制度的に「禁じられている」ということは論理的には繋がらない。
私が会った限りの政治家や外交専門家で、「アメリカ抜きの安全保障」についてなぜ想像力の行使を惜しむのかという問いに対して、「合理性」次元以外での反論を立てた人はいない。
ひとりもいなかった。
権利についての問題を私が問うているのに対して、全員が「合理性」レベルで回答して、そもそも私のような問題の立て方が「ありえない」と斬って捨てた。
繰り返し言うが、私は日米同盟基軸が「きわめて合理性の高い外交的選択肢」であることを認めている。
けれども、二国間関係は定常的なものではありえない。
歴史的状況は変化する。
80年代までは「東西冷戦構造」の枠内で日米同盟の合理性は基礎づけられていた。
90年代は「経済のグローバル化・ボーダーレス化」の枠内で基礎づけられていた。
00年代は「対テロリズム」の枠内で基礎づけられていた。
10年代は「中国の拡張主義抑制論」の枠内で、日米同盟関係の合理性は基礎づけられている。
さいわい(と言ってよいだろう)、この60年間はどのようにスキームが変化しても、そのつど日米同盟関係は「合理的なもののように見えた」。
けれども、それはスコラ派があらゆる自然現象を「神の摂理」で説明できたことに似ている。


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