“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

学長の選考 学問研究の自由と大学の自治

2014年11月03日 12時59分13秒 | 臼蔵の呟き

教育はその社会、国の長期展望にたって運営されるのが基本です。時の政権によりコロコロと教育制度が改変され、都合よく利用される国、社会に輝ける未来は訪れません。子供たちの教育を託す国民から見ても不安だらけになります。

大学は政治、経済からのしがらみを断ち切り、自由に研究を行うことが求められる研究機関です。大学における基礎研究は、その基礎研究が利益を生み出すことができるかどうかに矮小化されてはなりません。地球的な視点、国の制約を越えた真理の追究などが自由に、旺盛に行われてこそ、その価値を発揮します。アメリカの大学、研究機関に世界の優秀な研究者が集まるのは、そのような研究環境がある意味で保障されているからなのだと思います。そのことがアメリカ社会、国家の豊かな発展にも貢献する関係になっています。

大学における学長選挙は教官、研究者、働く人々の手で審査され、選出されることは当然のことです。そのことを攻撃する自民党政権、文部科学省、経済化の意図は明確です。自らの利益に奉仕する都合のよい大学を作りたい。そのために学長選挙をやめ、私物化する。NHK経営委員、会長選挙を自民党政権が握り、自らの代弁者を据えることでNHKは政府の広報機関と成り下がりました。また、内閣法制局長官を政権の思惑で更迭し、憲法解釈の大幅な変更を行いました。日銀は安倍氏の息のかかった人物を据えることで、日銀の独立性は全く損なわれました。この間の安倍、自民党政権の人事権の乱用と私物化は、目に余ります。

<北海道新聞社説>学長の選考 自治揺るがす投票廃止

 「大学の自治」が空洞化しかねない。

 学長を決めるに当たって、教職員投票を廃止する国立大学が出てきた。道内でも北海道教育大が初めて投票をやめる。これで全国86校中5校になる。経済界の重鎮や学内外の有識者などで構成される学長選考会議が選考を一手に握る形になる。

 法律上、問題はない。しかし、ほとんどの教職員がタッチできない密室でリーダーが決まれば、学内に閉塞(へいそく)感が募らないだろうか。経営手腕や対外交渉力ばかりが優先されれば、すぐには成果が出せそうにない基礎研究や教員の地位保全が脇に追いやられかねない。道教大には再考を求めたい。

 教職員による投票は2004年の国立大学法人化前はほとんどの大学で行われ、最多得票の候補者が学長に選ばれてきた。

 法人化後は、学長を最終的に決めて文部科学相に推挙するのは学長選考会議と明確化され、教職員による投票は必ずしも行わなくてもよくなった。だからといって、一気呵成(かせい)に廃止してよいものか。大学は自治が保障されることによって、学問と教育の自由が守られてきた。

 法人化から10年を経てなお、ほとんどの大学が学内投票を行い、その結果を尊重しているのは、教職員が自ら意思を示す投票行為が自治を下支えしているからだ。今年、大学当局が投票廃止に動いた京大で、教職員が大学の自治を掲げて反発し、廃止を阻止したことは記憶に新しい。

 逆に、07年の山形大学長選考では、投票2位の文科事務次官経験者が非公開の選考会議で選ばれ、就任後に選考会議で投票廃止を決めて学内の批判を浴びた。国立大学に国際競争力や産学協同の開発力がますます求められるようになり、学長に経営手腕や外に開かれた視野が必要とされるようになったのは確かだ。

 しかし、大学は利潤や業績を優先する企業とは異なる基本理念で運営されなくてはならない。そうでなくては、成果主義や効率一辺倒になって、基礎科学や実現に長い時間がかかる研究、社会のあり方を問う文系の学問がますます切り捨てられかねない。

 学問を守り発展させるためにも、大学の学長には幅広い見識と教員や研究を大事にする内面を備えた人物が就くべきだ。そうした学長を決める場が「密室」の選考会議だけでいいわけがない。


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