「LGBT」という言葉を目にすることが多い。
レズ・ゲイ・バイ・トランスの略だそうだ。
いわゆる性的「マイノリティー」のことを言う。
「マイノリティー」に関する認識や論説の現代的意味や、LGBTにまつわる活動家たち、および社会現象などは措いておく。
しかし、性的の同一に関する「倒錯」は今に始まったことではない。
リルケはドイツの詩人だが、名は「ライナー・マリア・リルケ」。
男性の名前ではない。
両親が生まれてから、かなり成長するまで女の子として育てたからだ。
しかし、詩人自身は両親の性的に特異な育児観にも拘らず、ゲイにもトランスにもならず、『マルテへの手紙』にみられるように女性を愛する男性に成長した。
ある研究によると、人間は多少の差はあるが、すべて同性愛的要素を持っているらしい。
性同一性障害を除いて、別に新奇な「LGBT」という言葉で騒ぎ立てることも無い。
冴え返る夜星ガラスのごときなり 素閑
遥拝に冴え返りたり禰宜の親 素閑
冴え返り菜のしほ漬けをつまみたり 素閑
壺庭にみどりの無きや冴え返る 素閑
透けたるは茶色の小壜冴え返る 素閑
冴え返る奥宮に行く杉木立 素閑
工事場の荒きつちくれ冴え返る 素閑
婚家へとつづく坂道冴え返る 素閑
冴え返り雀群れなす煤の空 素閑
湯屋を出て思わぬ雨よ冴え返る 素閑
星々も月にあこがれ冴え返る 素閑
キリスト教と仏教に接点があるやなしやと聞かれたら曰く「ある」が正しい。
ガンダーラ仏には厩で誕生した釈尊の像などがあることから、キリスト生誕の聖書の挿話が仏教にも影響したという話があるが、ここは、そんな歴史的な話ではなく、今現在進行中のトピックスである。
しかも他宗教交流などといった微温的なものではなく、キリスト教神学の中枢に仏教宗教思想を採用しようという(あるいは既にしている)という事実がある。
オカブもついこの間まで、キリスト教と仏教は水と油だと思っていた。
しかし、キリスト教前衛の自由主義神学に基づくと、仏教思想はキリスト教的に有りで、キリスト教はそれを採用すべきだとする説が堂々と唱えられているそうだ。
これを聞いたとき保守的なキリスト教思想に基づく信仰を持っていたオカブは魂消た!
そして即、それは違うだろう、と思った。
仏教にもいろいろある。キリスト教にもいろいろある。
人間を救済するという初期設定は共通している。
しかし、その方法論が仏教とキリスト教では真っ向から対立すると思った。
ただし、オカブの称する仏教とは、釈尊が説いたいわゆる上座仏教である。
オカブの理解によれば、それは万物は消滅する運命にあり、その無常の世への諦観が、己の魂の救いとなるというものである。
一方で、キリスト教は、イエス・キリストのみが救済への路であり、救われた者は永遠の命が与えられ、三位一体の信仰とともに、希望を捨てるなと言うものである。
キリスト教はある意味、非常に偏狭な宗教だ。寛容などとは程遠い。仏教の諦観と相いれる要素などゼロである、というのがオカブの理解だ。
市井の全く敬虔ではない一人の温い信徒が考えた妄想で、自身でもどれが正しいと断言する自信はないが、オカブの立場で言えば、仏教は所詮他人である。
だからオカブも仏教、仏教的なものとは他人と思って付き合っている。仲の良い他人として・・・
針納め花見ぬ里の女下駄 素閑
比丘浄土納めた針の行く末や 素閑
針納め西のかたへと拝みけり 素閑
古今とも針を納むる阿弥陀堂 素閑
針納む奉書のごとく包みけり 素閑
針供養納戸の奥の古木箱 素閑
針供養逢瀬の岸に古き寺 素閑
縫い針の折れた一本納めけり 素閑
堂覆うはだかの銀杏や針供養 素閑
納ると集めた針をマッチ箱 素閑
針納め娘のさちも願掛けぬ 素閑
二月も駆け足で過ぎていく。
今年は平成最後の年だそうだが(平成三十一年と言うのはあるのだろうか?)どうも、そんな大ごととは思えない。
むしろ今日・明日食っていくのに必死だ。
なんとか一週間過ぎるとほっとする。
結構、ユーガにやっているだろう、という向きには分からないかもしれないが、台所事情は火の車だ。
今期も会社は赤字を避けられない。
どうしたものだろうか?
もう会社も畳もうと考えたことも何度もだ。
まったくアベノミクスの恩恵を受けていない。
本当に助けてよ、と言いたい!
日の光煙りにまぎれ二月かな 素閑
たゆたへど二月の月の尖りしか 素閑
朝日にも暖かさ増す二月かな 素閑
朝湯入り草のかほりや二月かな 素閑
骨のごと二月の枝に土ぼこり 素閑
かほりなし二月に花を待ちぬるも 素閑
大利根にこれ見る二月赤城かな 素閑
道祖神二月の陽にぞ染まりけむ 素閑
狼煙あぐ二月いにしへ合戦場 素閑
薪運び二月の馬車の里の路 素閑
石畳二月の雨のかすれ声 素閑
昔、壜をモチーフに執拗に描き続ける日本の画家がいた。
そんなに有名な画家ではない。
しかしマイナーではない。
昔と言っても50年足らずだが、美術手帖にグラビアと活版の特集が掲載されていた。
一升瓶を特に気に入って、描いていた。
一升瓶は「チンポコ」と、その画家は言う。
成程、そんな興味や関心が画家の創作意欲を掻き立てるのかと、絵心の無いオカブは思った。
抽象でもない、具象でもない、ただただ壜をモデルにした淡いマティエールの作品群になぜか惹かれた。
それが証拠に、掲載誌もとうの昔にどこかに処分した今でも鮮明に覚えていて、その画家のことが忘れられない。
名前も覚えていないが、気に入っている。
「名画」でなくとも「名画」は身近にたくさんある。
今度、銀座の画廊にでも行ってみようかと思っている。
春の雪傘なく衣装に降りにけり 素閑
淡雪や百万遍の石ぼとけ 素閑
春の雪くりやにやかん湧きにけり 素閑
春の雪まつげを濡らす水しずく 素閑
春の雪小路まじわる下谷かな 素閑
西のかたわずか光るや春の雪 素閑
観劇の足袋を濡らすや春の雪 素閑
春の雪蔵と母屋に積もりけり 素閑
初梅の花びら包む春の雪 素閑
春の雪昼の語らひ散じたり 素閑
病室の窓も暮れるか春の雪 素閑
春の雪生きて降り落ち消えにけり 素閑
税務署からお呼びがかかった。
脱税をしたわけではない。
3年にわたって申告書に誤りがあったので訂正せよとのお達しだ。
面倒くさいがお上の言うことなので従うしかない。
しかし、日本のお役所はこういう素人にも丁寧に付き合って、親切に何くれと教えてくれるところはありがたい。
オカブは一応経営者なのだが、税法だ、申告書の書き方だのなんのことやらチンプンカンプンで、さっぱり分からない。
税理士を雇う金はない。
ネットで知識を仕入れ、税務署のお役人に教えを請うて、なんとか毎年、申告を済ませている。
するとお役人は懇切に指導してくれる。
時には払わなくていい税金のことも指摘してくれる。
これは日本の行政の長所だ。
尤も短所もあるが。
いずれにしても春はもうすぐである。
わかさぎや沈める湖のものがたり 素閑
わかさぎや広大無辺の平野かな 素閑
風雪もわかさぎにしてなごみけり 素閑
わかさぎや銀嶺はるか雲もなし 素閑
わかさぎやこほりのうみを跳ねとびて 素閑
わかさぎのその身さながら若おとめ 素閑
今日の晩わかさぎ揚げとなりぬるか 素閑
わかさぎや雪が雨へと北のさと 素閑
わかさぎや湖畔の村に薪積めり 素閑
大工またわかさぎ釣れる日曜や 素閑
わかさぎや紅蓮のほのほもさめざめと 素閑
どうも手許不如意である。
もともと稼いでいないので、そんなことに期待することが意味のない事なのだが、それでも「おあし」はあったほうが良い。
ちょっとしたものも買いたくても買えないし、ちょっとしたものも食いたくても食えない。
まあ、銭金のことには、もともと、あまり頓着がないので、これで済んでいる。
我が家はかーたんも含め至って貧乏性だ。
ある人が「貧乏を楽しめ」と言ったのを聞いたことがある。
竹中平蔵ではない。
普通の市井の人である。
いくら頑張った所で金が転がり込んでくるわけはないので、この言葉は気に入っている。
貧乏であるからこそスーパーの値引き品も堂々と買えるし、古着のコーディネートも楽しめる。
貧乏も捨てたものではない。
だから格差格差と無暗矢鱈、喚くのは大嫌いだ。
貧困は辛いが、貧富の差がなくなったら、却って社会の規律が保てないし、貧困それ自体を悪と決めつけるのは貧者に失礼であろう。
安土桃山時代に来日した宣教師が日本人は貧困を恥としない、として日本人の美徳に挙げている。
貧乏人はそれ相応に自己主張すればよいのである。
貧者が努力不足とか、貧者が倫理的に劣っているというのではない。
貧困にもそれなりの価値を認め、貧困の文化も発信し、貧困者の社会的存在をもっと主張せよとの真逆のことを申し上げている。
もとより貧者が「上級国民」に搾取されるなどあってはならない話だ。
しかし貧富の差は厳然と存在するので、貧者は貧者の地位を主張すべきと言うことに、若干の合理性を見出している。
「俳句」など貧しさを知らなければ、実に無味乾燥なものになってしまうし、貧困をテーマとした芸術も姿を消す。
全て一億総中流を描いたストーリーや、豪華絢爛に彩られた文化ばかりになったら、世界はどれ程「貧困」に陥ってしまうだろうか?それとも貧困は「フィクション」の世界だけに登場するようになるのだろうか?
こうなると貧困も一種の「富」だという発想に帰着する。
それには貧困を悪と決めつけ、貧困の存在を否定しては何もならない。
それに、身分不相応にあまり金を持っているのは考え物だ。
春立つや丘に登りて宙そそぐ 素閑
立春や聖らかな風頬刺しぬ 素閑
春立ちて雪も消えざる湖の岸 素閑
春立つもいつもと変わらぬ痴話げんか 素閑
賤が家も春来たりたまふ野づらかな 素閑
人の世に暮らして初に春むかゆ 素閑
春立ちぬ冷たき川に藻の流れ 素閑
春立ちぬけふは閻魔も優し気に 素閑
春立ちぬ荒地の土もかがやけり 素閑
立春ややまひの床の硝子窓 素閑
春立ちぬ大桟橋の波荒れて 素閑
古代、中世から近代にいたるまで、~の乱とか~の蜂起とかは、どうして起こったのだろう?
それは情報の伝達の手段があったからで、首謀者が同志を糾合し、民衆を扇動して、それを組織し起こったものであろう。
「情報の伝達」は言語、文字が不可欠である。
そして、大規模な騒乱には、結構、高度な情報技術・・・(もちろん、いわゆるITと言ったものではない。当時は電気もなかったのだ。)が必要とされる。
現代の情報技術の発展は、言語、文字の枠を超え、凄まじいものがある。
だから、現代は情報技術の発展に伴ってに、さらに不安定化し緊張が高まるであろう。
と、まぁ、アラブの春を予測したかのようなことを、50年近く前の高校生の頃考えていた。
ガキの妄想ではあったが、インターネットの発達によりそれに近いことが今起こっている。
自分の感覚もあながち馬鹿にするものではない。
甲斐駒のかたちもやすき春を待つ 素閑
門ごとの声もあらはれ春待てり 素閑
笛のねの春待つ原に響きけり 素閑
机にて春待ち明るき筆を取る 素閑
創業のあるじやひとり春を待つ 素閑
酒瓶のなかば空けれど春を待つ 素閑
草とても生きる喜び春待てり 素閑
蕭々と冷たき風や春を待つ 素閑
潮の目も明るく分かたむ春を待つ 素閑
初おのこ春待つ家に産まれけり 素閑
昔、勤めていた会社の社長が「論理的な狂気」で仕事をやれ、とのたまったのを聞いた。
その会社は、今にも潰れそうな外資系のベンチャー企業で、売り上げの確保が急務だった。
それにも関わらず、営業はまったく危機感がなく、のんべんだらりと一日の大半を会社の社内で過ごしていた
別に営業だけが悪いわけではなく、会社全体が沈滞と諦めムードに満ちていた。
そんな状況に喝を入れようと社長は冒頭の言葉を吐いたと思われるが、この社長自身が、折あらばこんな会社からスピンアウトしようという魂胆だった。
これでは、やる気のある社員は救われない。
しかし「論理的な狂気」というフレーズは気に入った。
人間、何事も理屈だけでは通らない世界がある。
理詰めで行けば駄目なことでも、時には推さねばならないこともある。
商行為も同列である。
しかし、そこにはそれなりの筋道が必要と言うことだろう。
こんな好景気と言われている世の中でも、アゲインストの風に晒されている企業は山ほどある。
釈迦の耳に説法だが、そういう企業の経営者・社員はこの「論理的な狂気」を参考にしてもらいたい。
汝がために梅をみせばや探りけむ 素閑
狂乱のアリア鎮まり梅探る 素閑
探梅や神のおわす屋背戸の山 素閑
山入りていらくさ埋もる梅探る 素閑
白き山探る梅とぞみまがひぬ 素閑
鳳輦に駕す高僧も梅探る 素閑
探梅や谷戸の崖上岩割りて 素閑
梅探る草の庵のかほりかな 素閑
猿もまた探る梅の香よひにけり 素閑
探梅や遠くにのぞむ伊豆の海 素閑
かーたんの誕生日は2月11日で毎年その日に祝い事をしたいのだが、なかなか内外の都合がつかなくて、その前後に誕生会をすることになる。
誕生会と言っても、かーたんとオカブの二人だけの祝いだが、今年は張り込んだ。
金曜日のランチに銀座の『ハプスブルク・ファイルヒェン』に行ってきた。
ウィーン料理である。
高級である。
ウィーン料理は高級になればなるほどフレンチと見分けがつかなくなる。
ここもその手の料理で、シュニッツェルやターフェルシュピッツは普通はない。
ただ、今回はかーたんの希望として、特別にシュニッツェルを出してもらった。
料理は総じて美味かった。
何か分からんがとにかく食ってきた。
セクト(オーストリアのスパークリング・ワイン)も空けた。
かーたんは抗がん剤の副作用で体が辛く、美味く良い思いをしたのはオカブだけだったかもしれない。
申し訳ないと思いつつ美食と美酒に耽溺した。
帰りは寒の風が冷たかった。
しかし、まあ、かーたん、おめでとう!
これまで連れ添ってくれた恩返しはするよ。
日脚伸ぶ月の払いは済ませけり 素閑
日脚伸ぶ猫と二人で留守居かな 素閑
いろどりもわずか豊かに日脚伸ぶ 素閑
日脚伸ぶ江戸の大路のさすらひか 素閑
日脚伸ぶ夕べギターの流しかな 素閑
日脚伸ぶ雲もはやての青き空 素閑
日脚伸ぶわけても君が寿齢かな 素閑
日脚伸ぶホームの人の少なけれ 素閑
書き疲れ日脚伸びたり筆置きぬ 素閑
日脚伸ぶ拾得片肌脱ぎにけり 素閑
日脚伸ぶのぞみて富嶽のあかねかな 素閑
季節に春の香りがしてくるとどこか旅に出たいが、かーたんが病身なのでそうもいかぬ。
ごくごく自宅の近辺の花鳥風月を愛でるのみである。
こういうのを、プチ引きこもりとでも言うのであろうか?
都内から出たのは、月初にコンサートに川崎まで行ったのが唯一である。
ドイツの哲学者、イマヌエル・カントは生地を出なかった。
一生の間、生地のケーニヒスベルグで暮らし、そこから一歩も出なかった。
しかし彼はそこで宇宙を観、宇宙を考察し、宇宙を語った。
偉大である。
オカブはカントと比較のしようもないどーしようもない爺である。
カントを引き合いに出すのもおこがましい。
しかし今の引きこもり状態はなにか似ている。
寒すずめひもじうてなら手こそこよ 素閑
寒すずめ弓の月こそ愛でにけれ 素閑
寒すずめ筆を持つ手を止めにけり 素閑
黄泉の世は昏き限りや寒すずめ 素閑
寒雀けふよあしたと飛びすがり 素閑
寒雀わが戸にきなば米たまふ 素閑
寒雀わたげも薄くしばかれよ 素閑
意地張れど寒すずめども寂しかろ 素閑
寒すずめ夜半に枕す巣のありか 素閑
寒すずめ窓にガラスの花瓶かな 素閑