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サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

インタビュー特集(39)多過ぎる欲望の巻

2017-04-13 16:00:29 | 日記


ポニョ:今日はコダイカナルでのサイババさんのインタビューの二回目です。確かにあんたが言ったようにサイババさんがお一人でずっと話しておられるな。

ヨシオ:サイババさんも面白くないやろな。俺たちみたいに誰かと冗談を言いもって話されるのが好きやから。という事で今日はどんな話をされるんや?

ポニョ:今日はマインドと平安について話されます。さあ皆さんもコダイカナルへようこそ。

人との物理的な付き合いは、可能な限り減らすようにしなさい。

肉体は一つの道具です。肉体は自分で動くことが出来ません。マインドも自分で動くことは出来ません。

アートマ(真我、内在神、真の私)こそが内在する力なのです。アートマは、輝きとエネルギーと力を、全てのものに与えています。

車を考えてみなさい。車にはライトが付いているでしょう。ライトの中には電球があります。電球があるからこそライトは点灯します。ライトを光らせているのは電球だろうか? そうではありませんよね。電球を流れ、ライトを光らせているのは電気ですよね。

クラクションが聞こえます。クラクションもそれ自身では作動できないですよね。クラクションが鳴るのは、電流が流れたためですから。

タイヤが動いています。でも、タイヤも自分で動くことは出来ないですよね。タイヤを動かしているのはエンジンですから。

このように肉体は車のようなものなのです。

目は電球です。

口はクラクションのようなものです。

(一同笑い)

足はタイヤです。

マインドがエンジンです。

知性がスイッチです。

神の力は電流です。

神の力が無ければ、肉体は動くことが出来ないのです。神の力が最も重要なのです。

肉体、マインド、五感、知性は、道具に過ぎません。

(ハンカチを手に取って)これは何かね? これは布です。だが、実を言えばこれは布ではないのです。糸が束になったものに過ぎないのです。

これは糸ではないのです。これは綿であるのです。

最初は綿で、それから糸の束になり、最終的に布になりました。

綿が無ければ糸は存在しない。糸が無ければ、布も存在しません。

想念は綿のようなものです。

欲望は糸です。

マインドは布のようなものです。マインド(心)は欲望が束になったものに過ぎないのです。

布(心)を無くしたければ、一本一本、糸をほどくしかありませんよね。

同じように欲望を少しずつ減らしていけば、マインドはすっかり無くなってしまうでしょう。(*心を無くせば神[悟り=完全なる平安]を体験できる)

荷物を減らせばより楽になり、旅は楽しくなります。(インド鉄道の標語)

(一同笑い)

人生は長い旅のようなものだ。欲望は旅の荷物である。荷物(欲望)を減らせば、旅(人生)はとても快適になるのです。

欲望が多過ぎます、欲望が多過ぎます…。これは非常に悪いことです。

欲望を持てば持つほど、非平安(アシャーンティ)が募ります。欲望と執着を減らせば、マインドの平安を得ることが出来るのです。

たくさんの人が、「私は平安が欲しい、私は平安が欲しい」と言い続けているでしょう。「私は平安が欲しい、私は平安が欲しい…」って。

この言葉は、「私」「平安」「欲しい」という三つの単語で出来ています。

「私」「平安」「欲しい」

「私」はエゴ、「欲しい」は欲望。これを取り除きなさい、平安はそこにあります!

(一同歓声と笑い)

あなたがたがスワミの本を欲しがっているとします。スワミは本を小包であなたがたに送ります。小包が送られてきたら、あなたがたはどうやって本を手に取りますか? 小包を覆っている包みを外して、本を手に取る。包みを外さなければ、どうやって本を手に取ることが出来るだろうか?

平安は小包で送られてきます。平安は包装されています。

平安は、エゴである「私」と、欲望である「欲しい」という二つのものに包まれています。だから、エゴと欲望を取り除けば、平安は自ずと手に入るのです。それが平安というものなのです。

エゴ、エゴ、エゴ…。欲、欲、欲…。エゴと欲望のせいで、平安はとても奥深くに隠されてしまっているのです。

肉体は一時的なものだ。肉体はいつの日か滅び去ります。肉体を保護しようとし過ぎる必要はありません。

肉体はスチール戸棚のようなものです。スチール戸棚は自分で動けません。

なぜ我々はスチール戸棚(肉体)を持っているのか? それはとても貴重なものを、戸棚の中にしまっておきたいからだ。

そうでなければ、スチール戸棚には何の価値も無いですよね。

貴重な品々はスチール戸棚の中に保管されています。スチール戸棚という肉体に保管されているのは思考なのです。その思考とは、神聖な想いなのです。それは神聖な行いでもああります。神聖な想い…。

あなたがたはスチール戸棚に、ダイヤモンドを全部しまい込みました。貴重品が入っているために、スチール戸棚を大切にしています。もし、何も貴重品が入っていなければ、大切にすることもなく、スチール戸棚を捨てさえしまうでしょう。

戸棚の中にはとても大切なものが入っています。サット サンガム(神聖な仲間、サット サング)とは何でしょうか? 我々は良い方法で、良いものを育てなければならないのです。

神が存在します。

個々の魂(ジーヴァ)が存在します。

神は火であり、光のようなものです。魂は石炭です。石炭はジーヴァであり、無知を意味します。

個々の魂に叡智を吹き込みたいのなら、火の近くに置かなければなりません。近くにです。

石炭が火の近くに持ってこられたときに初めて、火は石炭の中に入るのです。扇風機の風が吹いているとき、火は容易に石炭を捉えます。

「近さ」(near)と「親しさ」(dear)があるとき、我々は一つになることができる。神性を手に入れたいのなら、近くに来なければならない。身体的な近さのことではない。精神的な近さなのです。

肉体的には、あなたがたは私のすぐそばにいます。しかし、精神的には、あなたがたは私から遠く離れています。

あなたがたは、あらゆる狂った想念を持っています。

狂った交遊関係、狂った欲望…。それで、どうやって神性を獲得することができるのでしょうか?

蓮の花の上にカエルが座っています。遠くからやって来たミツバチが、蓮の蜜を採っていますが、花の近くにいるカエルは蜜を味わっていない。

あなたがたは近くにやって来たが、それが何になるのでしょう? あなたがたは神性を手にしていません。あなたがたは、ミツバチのようにあるべきなのです。カエルのようではなく。

(身振り手振りで)ピョンピョン…。

(一同笑い)

カエルはいつも、蓮の花の周りを跳び回っているでしょう。

我々は疑いの気持ちをいっぱい持っています。「疑り深いトマス」のようであってはなりません。
(*「疑い深いトマス」とはイエスがはりつけの後に復活したことを伝えられたとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」 と言った弟子。ヨハネによる福音書20-25)

小さな例えばなしがあります。あなたがたは自分の妻を愛しているでしょう。母親も愛しています。なぜあなたがたは、妻や母親を愛しているのでしょうか?

それはあなたがたには、その女性が自分の母親だという確信があり、その女性が自分の妻であるという確信を持っていますね。その子が自分の息子だという確信があるでしょう。

確信を持っているからこそ、そうした愛を持っているのです。相手が自分の妻や母親であるという確信がなければ、そのような愛を持つことはないですよね。

確信があるところに愛がある。

愛があるところに平安がある。

平安があるところに真理がある。

真理があるところに至福がある。

至福があるところに神がいる。

あなたがたには確信がない。

いつも、いつも、いつも疑いの気持ちでいっぱいでしょう。それだけ疑いの気持ちがあれば、何年たっても心の平安を手に入れることはできないでしょうね。

何よりもまず、確信を持たなければならないのです。アートマ(真我、内在神、真の私)への確信を持つのです。

アートマへの確信があるところにアートマへの満足がある。

アートマへの満足があるところにアートマへの犠牲がある。

アートマへの犠牲があるところにアートマへの気づき(悟り)がある。

アートマへの気づきは、アートマへの確信によるものだ。



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