物質氾濫

2009年09月21日 | 社会 -

私の周りには、あまりにも「モノ」があふれている。
整理して、処理しようと思うと・・・果てしがない。
どこから手をつけようかと、悩んでしまうほどだった・・・。



はじめて携帯電話を、電気量販店で購入した時には、8万円以上したと思う。
それほど多くの人が持っていない頃だったので、価格も群を抜いていた。

今は、その時に購入した携帯電話と、第二携帯としてauのプリペイド携帯を
用途に合わせて使い分けているが・・・時代によってサービスもどんどん変わる。
プリペイドは使い始めて、すでに5年近くなるが、身分保障(登録制度)になり、
現在は機種も提供されない“ひどい扱い”になってしまった。
auのプリペイド携帯に対する“誠意のないサービス”に幻滅する。
(一方的に切り捨てるのであれば、最初から販売しなければよいのに!)

携帯電話を二種類使い分けていること事態、奇妙なことかもしれないが・・・
私はWebにアップする番号は、個人の電話番号を使いたくなかったのだ。
現在、HPは三つ(仕事用やボランティア等)を自分で製作し、管理している。

また、NTTの通常電話に関しては、二回線を所有している。
購入した時は高額だったのに、今は価値もなく、使う余地もない。
現在、一回線はNTTに預けてある状態である。

一人暮らしの私の自宅には、PCは四台あり、プリンターも二台ある。
デジタルカメラは二台、ムービィカメラは一台持っている。
リビングの音楽ステレオコンポの他、小型CD再生デッキも、3台ある。

昔の資料書類、経理書類、数年前の服、お付き合いのために頂いたプレゼント、
埃を被った電化商品、いつか必要かもと思ってキープしているモノまで考えると、
脳細胞がパンクしそうだ。  (まだ、まだ、ありそうだぞ・・・)




「物資」にあふれた“この生活”を、いかように整理して、管理していくのか、
今は頭の痛いところである。
私の日々は、非常にシンプルで、節約しながら、質素に暮らしている・・・
(自分で言うのもなんだが・・・)。
モノを買いあさった若い頃もあったが、それが捨てられずキープしているのが
この現状を引き起こしている要因かもしれない。
マイブームも数年で変わり、過去の思い出の品も、数多く残っている。
過去の写真などは、アルバムにしているので、膨大な量となっている。



「整理する」ことと、「捨てる」ことは、非常によく似ているが・・・
自分の感情の中には異なるニュアンスがある。
「捨てる」前には、「判断する(区別する)」という行為(感情)があるのは、
判っているものの、その行為が、「整理する」ことを妨げているようである。
だから、いつも行動に移せないでいるのだ。




もっともっと“シンプルな生活”を、あらゆる意味でしたくなった私は、
我が家でも同様に、それを求めている。

今、自宅は(私自身の小さな決意の果てに)各部屋に「ごみ袋」が散乱している。
一つ一つを確認しながら、(心で思い出を復唱し、ささやかに御礼を念じて)
ごみ袋に移動させている。

すべてを整理するのには、数ヶ月かかりそうな勢い(計画)になってきた。



しかし、考えてみれば・・・・・日常で使うものは限られており、
“「それ」がなくても死にはしないモノばかりに囲まれた私の生活”は、
今や、無駄の宝庫だと感じてしまうようになってしまった。
資本主義(物質主義)の温床が、ここにある。
そして、今となっては、「ごみの山」と言えなくもない場所さえある。
たとえば、化粧品などは、3年以上経過したものは、もう使うには及ばず!
ただ化粧台の上にのっていても、自分が使う意志がなければ全く意味がない。
そういう類のものが、我が家にはたくさん存在している。



私が、とても残念に感じるのは・・・、
社会の規格変化におどらされ、影響され、受け容れざるを得ないために、
残しておきたいものを捨てなくてはならない物たちである。
ある意味では、自分だけではなく、社会的にも貴重なものがあったりもする。

庶民は、いつも・・・こうして・・・・
勝ち残った“社会の規格”に適合して生きていくしかない。
「大事な映像だけ、VHSからDVDにコピーするしかないのだろう」・・・と、
膨大なVHSテープを見上げながら、今・・・感じている。


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