寒中見舞い

2008年11月16日 | 雑感 -

「疲れをとろう」「リラックスしよう」と思いながら・・・
身体を横たえてみても、なかなか「心」が落ち着いてくれない。

夜中にも目が覚めてしまったりする。
「うつ病」になりたくないので、テレビなどを見ながら
頭を疲れさせて、また再びベッドにもぐりこむ・・・。

きりきりと痛む“からだの奥底から突き上げてくる何か”が原因だろう、
ため息と深呼吸を繰り返す日々である。

問題をかかえている人は、皆、そんな状況を経験していることだろう。
私も今、そういうトラブルをかかえている一人でもある。
少しは「ちゃらんぽらん」なれるかどうかが分岐点なのかな・・・とも
日頃の自分を思い返しては、なんとなく感じたりする。




二年前から、連絡したいと思いながら、どうしてもできなかった人に、
突然、電話をした。
愛する息子を、不本意な事故(刑事事件の可能性があったもの)で
亡くした「ある人」である。
彼女は、とても息子さんを愛していたので・・・
今も「すぐにでも会いたいから、10年後には逝きたい」と言う。
私の胸がしめつけられて、二時間話して、二人で泣きっぱなしだった。
有名音楽大学で教鞭をとり、彼女にしかできない音楽の仕事をかかえながらも、
それでも、そんな気分に取り付かれている彼女の気持ちは、
全くこの数年変わらないと言う。
話を聴けば、聴くほど、「虚しく厳しい状況」が伝わってくる。
私の状況なんて、比べ物にならないくらいのことを経験して、
そこから伝わる境地を慮ると、言葉を失ってしまう・・・・。

はじめてそれを知ったのは、喪中ハガキ。
届いたポストの前で号泣して、何度も電話しようと思いながら、できず・・・
読むたびに泣いていた。
それでも、連絡はできず・・・時間だけが過ぎていった。
今年1月は「寒中見舞い」になっていて、仕事等の忙しい近況が記されていて、
ある意味では「安心」した自分を思い出した。
仕事に没頭することができれば、寂しさもわずかではあっても忘れていられる、
そう勝手に想像したからである。
それでも電話できなくて・・・
もし、電話しても、「泣く」ことはいけないことと(自分で)勝手に思い込んで、
時間の経過を待ちながら、ハガキはいつも手元に置いていた。


今回、なぜ、突然電話してしまったのだろうか・・・と、思うのだけれど・・・
やっぱり「正直な自分の心がそうさせたのだと思う」。
自分も辛かったので、友人の冷静な言葉や、シアワセそうな話を聴く自分が
嫌だったのだろうか・・・そういう気持ちが潜在的に存在したのだろうか。
なんとも、よくわからない。
とにかく、「連絡をしたい!」・・・と、突発的に思ってしまったのだ。
「自分の気持ちを伝えたい」という、何かとてつもない勝手な行動だったけれど、
彼女はとても喜んでくれた。

仕事で、たった4~5回会っただけの相手だったし、
私が電話をしても、どうなるものでもないと感じつつも・・・おさえられない
気持ちが行動させてしまったのだろう。

結局、一度お邪魔したことのある自宅にも「また遊びにきてほしい」と言われ、
「電話も気が向いたら、いつでもしてね」と言われた。

特別な感情を交し合った「人」が、一人増えたような感覚である。



いろいろな「気持ち」や「これまでの経験」と「心持ち」を、
お互いに、たくさん話した。
彼女も、私の話を、とてもよく聴いてくれた。
本当に、有難かった。


彼女も、私も、「ひとりぼっち」だ。
共通することは、「淋しい」という気持ちが、ふくれあがっているということ。
家のあちらこちらに記憶が詰まっていて、思い出してしまう~と彼女は言った。




「ナミダ・セラピー」ではないが、思い切りに泣いたら、
すっきりとした気分になった。
でも、胸の奥に詰まった「何か(トラブルの素?)」がとれることはない。
そのために、これから頑張っていかなければならないことが、私にはある。




彼女のように、精力的に、アクティブに、自分を信じて、進んでいこう!
そう思った。
どんなに辛いことがあっても、自分の中でコントロールして、
時には、はばかることなく泣いて、自分の平衡を保っていこうと思った。

彼女に電話してよかった・・・と、心から思った。

そして、私は「笑顔」で、生きていきたい!とも、心から感じた。


今年は、私も彼女にならって、「寒中見舞い」にしようと思っている。
(心から「おめでとう」という気持ちになれないからである)

でも、来年からは、きっと「良い年にしてみせる!」。
そう思い描いている自分を、今、感じている。




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