ブログを早々に夏休みにしたのは、
実は、義父の具合が悪くなってきたからでした。
しかし、こんな早く逝ってしまうとは・・・・。
6月30日逝去、
7月14日に教会で葬儀を無事終えました。
休み明け早々にこの知らせは・・・
と思い、号外で書きます。
死因は、ポリオ。
たぶん、皆さん、想像しにくいと思います。
私は、息子、娘に三種混合で
ポリオのワクチンを接種させましたが
副作用を気にはしても
ポリオについては、ろくに知りませんでした。
※ポリオ(小児麻痺、急性灰白隨縁)のワクチンは、
日本では1960年に始まり、1980年の患者が最後。
しかし、まだ世界にはポリオ患者がいて、
治療法が未だないので、
ワクチンで予防することが必須、と言われている病気。
●ポリオと共に生きた義父
父は、1935年生まれ。
3歳でポリオに感染、
脊髄に菌が入り、全身に影響を受け、
特に右足の筋肉は極端に細くなりました。
幸いにも、ポリオのトレーニングにより、
実は、義父の具合が悪くなってきたからでした。
しかし、こんな早く逝ってしまうとは・・・・。
6月30日逝去、
7月14日に教会で葬儀を無事終えました。
休み明け早々にこの知らせは・・・
と思い、号外で書きます。
死因は、ポリオ。
たぶん、皆さん、想像しにくいと思います。
私は、息子、娘に三種混合で
ポリオのワクチンを接種させましたが
副作用を気にはしても
ポリオについては、ろくに知りませんでした。
※ポリオ(小児麻痺、急性灰白隨縁)のワクチンは、
日本では1960年に始まり、1980年の患者が最後。
しかし、まだ世界にはポリオ患者がいて、
治療法が未だないので、
ワクチンで予防することが必須、と言われている病気。
●ポリオと共に生きた義父
父は、1935年生まれ。
3歳でポリオに感染、
脊髄に菌が入り、全身に影響を受け、
特に右足の筋肉は極端に細くなりました。
幸いにも、ポリオのトレーニングにより、
歩けるようになりました。
2回の手術を経て、
山歩き、スキー、キャンプ、車の運転もこなしてきました。
ただ、「脚の痛みは、常にあった」と話したのは、最近のこと。
2回の手術を経て、
山歩き、スキー、キャンプ、車の運転もこなしてきました。
ただ、「脚の痛みは、常にあった」と話したのは、最近のこと。
一度も「痛い」と言ったことがなかったそうです。
「50歳で車椅子になるかもしれないが、それでもいいか?」
と言うのが、義母へのポロポーズ。
実際には、日常で車椅子は使わずに済みました。
彼は体の使い方が上手だったのでしょう。
ただ、老化とともに維持できなくなり、
手足にさらなる支障が出てきたのが、70歳。
トルコでトレーニングを受け、
冬は暖かいスペインのグランドカナリアで暮らし、
また上手に体を維持していました。
家族を愛し愛され、
自分の人生を謳歌していました。
私と娘も一緒にイタリアに旅行した時は、81歳。
バチカン、サン・ピエトロ大聖堂クーポラへの
階段320段も登り切りました。
恐れはなく、いつも笑顔で前向き。
しかし、この一年、筋肉は18㎏落ち、
手足はもちろん、喉、
ついに呼吸器にも影響が出てきました。
サービス付きマンションに引っ越して約3週間、
呼吸困難で入院。
私たちが行くと、
「50歳で車椅子になるかもしれないが、それでもいいか?」
と言うのが、義母へのポロポーズ。
実際には、日常で車椅子は使わずに済みました。
彼は体の使い方が上手だったのでしょう。
ただ、老化とともに維持できなくなり、
手足にさらなる支障が出てきたのが、70歳。
トルコでトレーニングを受け、
冬は暖かいスペインのグランドカナリアで暮らし、
また上手に体を維持していました。
家族を愛し愛され、
自分の人生を謳歌していました。
私と娘も一緒にイタリアに旅行した時は、81歳。
バチカン、サン・ピエトロ大聖堂クーポラへの
階段320段も登り切りました。
恐れはなく、いつも笑顔で前向き。
しかし、この一年、筋肉は18㎏落ち、
手足はもちろん、喉、
ついに呼吸器にも影響が出てきました。
サービス付きマンションに引っ越して約3週間、
呼吸困難で入院。
私たちが行くと、
呼吸器の為、ジェスチャーで
「やってくれ」と私に言います。
いつも私が義父にしていた、脚のケア。
私が始めると、指をピクピクさせて笑っています。
次の日は、鼻からの呼吸器だったので、
頭もさえてよく喋りました。
「ハルコがすると足の腫れがひく。不思議だ」
「また明日ね~」。
まさか、それが最後の言葉になるとは・・・。
その翌朝6時前です、
医者から家族に召集がかかったのは。
「横隔膜の機能が完全に止まりました。
酸素を入れても二酸化炭素を排出できず、
本人が苦しいだけなので、
呼吸器は外します」。
医者からの説明は
家族も予測していたこと。
義母も皆が理解し、受け入れました。
それからの病院の配慮には驚きました。
義父の右横に義母のベッドを並べてくれたのです。
いつも私が義父にしていた、脚のケア。
私が始めると、指をピクピクさせて笑っています。
次の日は、鼻からの呼吸器だったので、
頭もさえてよく喋りました。
「ハルコがすると足の腫れがひく。不思議だ」
「また明日ね~」。
まさか、それが最後の言葉になるとは・・・。
その翌朝6時前です、
医者から家族に召集がかかったのは。
「横隔膜の機能が完全に止まりました。
酸素を入れても二酸化炭素を排出できず、
本人が苦しいだけなので、
呼吸器は外します」。
医者からの説明は
家族も予測していたこと。
義母も皆が理解し、受け入れました。
それからの病院の配慮には驚きました。
義父の右横に義母のベッドを並べてくれたのです。
車椅子で到着し、左手しか使えない母の為に。
義母は義父の手を握り続け、
私たち家族が二人を見守ること、4時間。
呼吸の音は静かに消えていきました。
●家族の心のこもった葬儀
私は数回葬儀に参列したことがありましたが、
ノルウェーの葬儀は温かい。
その訳が分かりました。
家族、教会の都合で決める日程には
義母は義父の手を握り続け、
私たち家族が二人を見守ること、4時間。
呼吸の音は静かに消えていきました。
●家族の心のこもった葬儀
私は数回葬儀に参列したことがありましたが、
ノルウェーの葬儀は温かい。
その訳が分かりました。
家族、教会の都合で決める日程には
心身に余裕をもらえます。
葬儀屋の指揮ですが、
全ては家族が決めます。
神父と家族のミーティングがあり、
神父が書いてまとめた本人の人生を
家族がさらに訂正しました。
こうして葬儀で、
神父は、義父の人生を
葬儀屋の指揮ですが、
全ては家族が決めます。
神父と家族のミーティングがあり、
神父が書いてまとめた本人の人生を
家族がさらに訂正しました。
こうして葬儀で、
神父は、義父の人生を
優しく楽しく語って下さいました。
音楽は、全て義母が選んだ曲を
プロのオルガニストが演奏。
(手の負傷で今回は、ピアノでした)
プロのオルガニストが演奏。
(手の負傷で今回は、ピアノでした)
※ 神父、オルガニストには、
市から給金が出るので、家族は無料なのです。
「家族から」では、
「家族から」では、
義妹の「父との思い出談」と
私と相方さんのギター・ハープ演奏。
プログラムの写真は、
全て相方さんと私の写真を
私と相方さんのギター・ハープ演奏。
プログラムの写真は、
全て相方さんと私の写真を
使ってもらえました。
淋しいけれど、私たちは落ち着いています。
淋しいけれど、私たちは落ち着いています。
義父は、最後まで義母を想い、義母と過ごし、
引っ越し後は、毎日、
遠くの孫や友人の訪問がありました。
家族も、彼をサポートし、
毎日彼と電話で話してきました。
家族も、彼をサポートし、
毎日彼と電話で話してきました。
心静かにおれるのは、
人生を全うした彼を
心から尊く思えるからだ、と思います。
私が思い出すのは、
出逢った日から全く変わらなかった
義父の笑顔。
私が思い出すのは、
出逢った日から全く変わらなかった
義父の笑顔。
言葉に頼らず、私を受け止め、心交わしてくれた
あの笑顔。
今は、私の父母も交えて笑っていることでしょう。
どうぞ皆さん、引きつづき
夏のよき時間をお過ごしくださいね。
日本の動向、祈る思いで見ています。
イタリアでの義母と義父
義父の故郷ロフォテンのLaupstad
トロムソでずっと眺めたであろう山・Blåmann、
歌の歌詞が載っています。
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