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原爆回顧録-一仄轟音(ぴかどん)-第1集

2008年07月14日 | 読書日記など
『原爆回顧録-一仄轟音(ぴかどん)-第1集』
   田辺至六・著/広島県庁職員原爆被害者更生会1962年

うすい冊子です。
--東警察署署長で、レッドパージで退職させられたという人物もおられたんですね……。



はじめの方でこんな文章があります。下「」引用。

「追憶
    道岡久仁子
『むくげ咲き カンナ咲いて原爆の涙新た十七回忌』
 あれから苦難の十七年、早いやうでもあり、長かったようにも思います。-略-」

著者はレッドパージで退職されられたという。下「」引用。

「一九四七年(昭和二十二年)七月 レッドパージによって県庁を退職せられ、永年の役人生活にもかかわらず、恩給ももらえず、比婆水産、藤川倉庫などへ食客的勤務をしておられたこともあったと、記憶しております。それに原爆で県庁に勤めておられた長男を亡くせられたので、ピカ以来だんだん気力が失せたようで、昔の金ピカ署長のハ気はどこえやら、口かずもしだいに減っていくようです。-略-
 こうした隠された、世紀の、世界的国宝人田辺至六先生の御健康を、読者の皆さまと共に、お祈りしてやみません。-略-
    編集人 柿本四三」


広島市が攻撃されないのは。下「」引用。
「『広島は軍都とは云えあまりにも綺麗な町だから敵さんはこれを残しておくのであろう』」

しかし、予言めいたことをいう人も……。下「」引用。

「『将来きっと何等かの攻撃が行われるに違いない』」

前日から……。下「」引用。

「こうした情勢下ではあったが、八月五日の夜九時三十分頃令によって空襲警報は発令された。これはB29の十機編隊三個梯団が、豊後水道から我が広島方面に向ったと中国軍管区によりラジオを通じて発表されたのである。
 このときはさすがにのんきなことを云っていた連中も、今晩こそは-略-呉市が徹底的な焼夷弾攻撃を受けたのと同様の空襲があるものと覚悟して極度に緊張しそれぞれ所定の部署につき防空態勢を固めていた(竹槍式の防空態勢ではあったが)。
 しかし幸いにも一個の爆弾も焼夷弾も投下することなく南方に退去したので、翌午前三時三十分警報は解除され、ほっとした気持ちで詰所を引揚げて寝につき、しばしまどろんだと思う間もなく午前七時十分サイドの警報が発令された。」

--パラシュートをながめていたという。
それも、きれいなもの……と。
数日前のビラもきれいだと見ていたという。
瞬間、青色を帯びた閃光があったという。

稲荷橋(当時は電車専用橋)と書かれてありました。






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