磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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証言-----ヒロシマ・ナガサキの声-----第二集

2007年12月28日 | 読書日記など
『証言-ヒロシマ・ナガサキの声-第二集』
   長崎の証言の会/代表・鎌田定夫/
     長崎の証言の会1988年

世界各地で平和運動がされています。そのことを知ることができます。大手マスコミの戦争好きとは大きく違いますね。そのくせ、平和と包装紙でくるむようなイメージだけをそえる大手マスコミ……。積極的な平和を! 構造的暴力をなくす報道を! それならば、格差社会はすすめられないぞ!



伊東壮さんはアメリカへ。下「」引用。

「五月三十一日から二週間、国連の第三回軍縮特別総会(SSDIII)に、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表団二三名とともに参加した。」

原爆開発をしたコロンビア大学でも語られたそうです。下「」引用。

「私もコロンビア大学の大学院で核兵器の被害の特別講義をした時に同様の思いをした。外交史と核問題をテーマにして招かれたのだが、約二十名くらいの学生を前に私はまず「日本が太平洋戦争の引き金をひき、パールハーバー奇襲攻撃をしたことを大変申しわけなく思っている。」ときりだした。しかし、同時にパールハーバーと原爆攻撃は同一視できぬと続けた。パールハーバー攻撃で二三三四人のアメリカ軍人が戦死し、一三四七人が傷ついたこと自身は悔やんでもあまりあるが、それと二一万の主として市民を殺りくした原爆を同次元で比較することはナンセンスであること、原爆被害をみる観点は自分たちの上に今後生じかねない未来戦争の様相の予告としてみるべきことを話し、私の被爆体験にはいっていった。」

『原爆神話』に騙されてはアメリカ人にも日本人にとっても不幸ですね。
--いや、人類にとって不幸です。それは核兵器を使わずとも影響を受けていますね。

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アメリカの平和行進に参加した下平作江(長崎原水協語り部)。下「」引用。

「下平 “平和の波”行動の一環としてサンフランシスコで平和行進をした時、私たち被爆者はまわりの方々にすすめられて先頭を歩いたのですよ。公園でアピールした時は、集まった七千人もの人がひとくぎりごとにすごい拍手をするのです。そして花束を持って来た子供さん二人がさっと前に出て、「親、兄弟が黒コゲにならないように核に反対します」と発言したとき、小さな子供にも私たちの言葉がとどいたのだなあ、と胸に迫るものがありました。」

モルモン教徒の被害者の話を聞かれた槌田禎子(ジャーナリスト)。下「」引用。

「私はネバダの核実験による被曝者に風下住民の会のジャネット・ゴードンの紹介で会いました。彼らは敬虔なモルモン教徒で、ちょうど長崎で被爆の話を聞くのと同じ状況、話をするのが苦しいという状況にありました。」

深川宗俊(歌人、被爆者)の被爆当時のことを語られています。下「」引用。

「深川 私は朝鮮人徴用工とともに被爆、そのことが私の戦後の生き方に大きく作用してきました。十年前、長崎県の壱岐で掘った韓国人徴用工と思われる約八六体の遺骨は、いま広島の別院に仮安置してあります。その後二年かけて外務省、厚生省の再発掘調査でさらに四五体。ようやく韓国政府に返還されようというところまできています。まだ韓国政府側の事情や三菱とのかねあいなどで、はっきりした回答は出ていず、大使館を通じて問題を提起しているところです。」

軍国少年だつた朱硯(朝鮮高校被爆教諭、語り部)。下「」引用。

「この話をするのはつらいです。私は昭和十五年“紀元二千六百年”には日本に来て、皆さんに負けないほどの軍国少年だった。天皇崇拝で、侵略戦争なんて考えもしなかった。アジアの盟主日本、日本人イコール朝鮮人ということで大きい顔ができる。戦争勝つべし……というわけです。弟にも、陸軍幼年学校にでも入れて軍人にし、受けている差別をなくしてやろう、などと夢見ていた。」 

祖国を裏切るような行為はして欲しくありません。
--どこの国の人でも……。
もちろん、(無謀な)戦争をすすめた日本の首脳も祖国を裏切ったとボクは思います……。

「姉、渡辺千恵子と共に」渡辺正男・著。下「」引用。

「八月上旬、いつものよにう避難していると、一人の軍人が避難しにきて高射砲隊の経験談を話された。爆弾が落ちてくる時、「ヒュー」という音をたてて聞こえてくる時は心配ない、立っていても大丈夫だが、「ザー」という音がきこえた場合はすぐに伏せないと危ないという話をされた。私たちは「ヒュー」という音が身の危険を感じると思いこんでいたので、非常に興味深く話をきいた。
 八月九日、晴天、いつものように、木型工場の作業台に向かって作業をしていた。急に「ザー」というものすごい音、瞬間、これは危ないと思って作業台の下に伏せると同時に稲妻のような光がピカー。ものすごい爆風。建物がバリバリ音をたて落ちてきた。」

もちろん、姉のことも書かれておられました。

昭和46年に山口勇子さんは東京に引っ越されたそうです。


「林津恵さんをしのぶ-「嘉代子桜」の母として生きる-」熊本県球磨郡錦中学校・著。下「」引用。

「錦中学校ではその修学旅行後、文化祭で「嘉代子桜」を劇化し、上演した。
 ところが林津恵さんは今年の四月二十四日、長崎市の済生会病院で亡くなられた。八十七歳であった。
 ここに林津恵さんをしのび、生徒たちの作文や詩をまとめた。」

「ヒロシマの意味するもの-カン平和博物館をめぐって-」ミホ・シボ=新間・著。
--カン市の平和博物館「メモリアル」の開館式を開いたという。

「アメリカの被爆者の苦闘は終わらない」倉本寛司・著。下「」引用。

「原爆を落とした国が母国であり、世界最強の国であり、いつまでも強くありたい国であり、その中で無視されつづけているアメリカの被爆者の苦闘はなかなか終わらないでしょう。しかし、“証言”だけは残したい。そして将来、もうあのような悲劇が二度とおこらないようにしてほしいと念じています。」










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