『青い鳥のうた-ヘレン・ケラーと日本-』
岩橋英行・著/日本放送出版協会1981年
ヘレン・ケラー三回来日と筆者。下「」引用。
「彼女は、昭和十二年、二十三年、三十年と三回にわたって来日した。第一回目は「奇跡の聖女」、第二回目は「幸福の青い鳥」、第三回目は「古き良き友」として、日本に降り立った。彼女の残した足跡は、またわが国の身体障害者の前進の歴史でもあり、まさに人々が探し求める「青い鳥」そのものであった。ヘレン・ケラー女史来日を、陰ながら企画したのは筆者の父、岩橋武夫であり、その関係から筆者は十二年のときにはヘレンの膝に抱かれ、二十三年のときには同じ道を求める良き先輩として、そして父の亡きあとの三十年には、彼の後継者として彼女に接した。」
平和を求めたヘレン・ケラーとサリヴァン……。
マスコミのパッシングはじまる。下「」引用。
「これは確かに、我々の知る、否、知らされているヘレンの姿とは異なったものではあるが、ヒューマニティーへの飽くなき追及には一徹なものがある。その後の後援旅行では、語調は増して厳しくなった。軍備反対、絶対平和の一貫した強固な意思が強く語られた。ヘレンを、「盲人のための女性大祭司」「驚異の女性」「現代の奇跡」として称賛していた新聞も、彼女が当面の社会問題に言及するや、その論調は一変し、辛辣な酷評を加え、彼女を攻撃した。このような過激ともいえる彼女の一連の行動は、彼女の収入の道をせばめ、ヘレンとサリバンを支える貯えも底をついた。」
そして映画出演。下「」引用。
「やむなく三十八歳のとき、自分の生い立ちを題材にした「解放」という映画に自ら女優として出演、チャーリー・チャップリンと共演するなど、ヘレンとサリバンはなりふりかまわず生活のために働いた。「品位がない」「金のために何でもする」--人々の非難は集中した。」
旅回りの一座と巡業をしたヘレンとサリヴァン。下「」引用。
「四十歳から四十四歳まで芝居や寄席で、旅回りの一座とともに巡業の旅も続けた。こんなある日、寄席の出番二時間前、ヘレンは母ケイトが死去したことを知らされた。芸人は人々の前に立たねばならない。いつものようにサリバンが前座をつとめ、続いてヘレンとの掛け合いが始まった。最後に、「ヘレン、あなたは幸福ですか」とサリバンはヘレンに尋ねた。彼女は笑顔で、「私は何も恐ろしいことはありません。本当に幸福です!」と、心の中の殺伐とした悲しみをこらえながら答えた。-略-寄席での収入は、講演や著作の印税よりも二人の生活を潤した。」
カーネギーの支援を1度は辞退……。下「」引用。
「一九一○年(明治四十三年)、富豪カーネギーは彼女たちの生活振りをみかね、生活援助の申し出を行なっている。二人はその好意に対し、「やれるところまでやってみます」と答え、これを丁重に辞退した。カーネギー負債は再考を求め、「いつでも必要なときは申し出て下さい。妻と私は、それまで快く刑の執行猶予を受けましょう」と答えている。しかしカーネギーの援助申し入れから四年後、ヘレンはやむなく彼に援助依頼をした。カーネギー負債は快くこれに応じ、ヘレンの手元にさっそく小切手が届けられた。同封の手紙に「運命は親切なものです。受くるよりも与うるの幸なるを感謝すべきは、小生と愚妻でございます」としたためることを忘れてはいなかった。」
高名な盲人学者塙保己一を尊敬していたヘレン。
来訪願う岩橋武夫。
サリバンはヘレンにさとした。下「」引用。
「わたしは、もういつ天国に召されるかわかりません。そのことを恐れてはいけません。遠い日本から、盲人事業啓蒙のために来ていただけないかとの依頼なら、喜んで行ってあげなさい。あなたをここまで教育して来たのも、そういう求めに応じ、全世界の不幸な人々と手を握り、みんなが幸福になれるようにとのためでした。もし私が元気だったら、三人ですぐにでも出かけるのですが……」
ヘレンは答えた。
「でも先生! 私はあなたを置いていけないのです」」
出版と一燈園。下「」引用。
「ヘレンを迎えるための拠点が完成し、続いてようやく待望の『ヘレン・ケラー全集』、すなわち、「私の生涯・其の一」「私の生涯・其の二」「私の生涯・其の三」「私の世界」「私の宗教」が、それぞれ日を追って刊行された。三省堂の内容見本には、各界の識者が推薦文を寄せた。一燈園の西田天香は「岩橋武夫がよい人という人は、よい人に決まっている」と語り、神戸商科大学教授の福田敬太郎、山室軍平、関西学院大学教授の竹友藻風らがヘレンの偉業を称え、身障者への福祉の拡大を願った。」
日本の軍部……。下「」引用。
「こうした中に、二人の日本人記者がヘレンを訪ねた。日本で、盲聾教育と同じように平和ついても話すかどうか尋ねた。
彼女は、「もしそういうことをしたら、日本の軍部は私を入国させたことを悔やむでしょう」と答えた。「でもあなたが、親善のメッセージの一部として、世界平和のために祈るというものであれば、それはまた一段と高度な課題への影響となるのではないか」と記者はすすめた。
ミゲールは、ルーズベルト大統領が、ヘレンを通して日本人にメッセージを送る意思があるかどうか、ホワイトハウスに意向打診した。ヘレンの周辺は、日本への訪問を控えあわただしくなっていく。」
一燈園の托鉢者たちの協力。下「」引用。
「昭和十一年十二月に来朝が決定し、翌年四月十五日にヘレンは到着するという。しかも最初の予定は二カ月の滞在であったものが、四カ月に延ばされた。当時のライトハウスには、わずか八名の職員がいただけで、日本国内だけでなく満州、朝鮮にも及ぶという膨大な旅行計画、スケジュール調整、ヘレンの講演会のもち方、各地の公会堂の予約、手配など、この陣容ではとうていまかないきれるものではなかった。武夫は西田天香に援助を依頼した。西田は、托鉢者として一燈園より選りすぐりの満留武智をはじめむ、境重蔵、鈴木八重造、杉山美淑、杉山とみ子、江谷まさ子をライトハウスに派遣した。
来日が目前に迫り、時間は限られているにもかかわらず、政府機関はじめ、満州、朝鮮を含む各種団体、公的機関への連絡は、膨大な事務であった。一つのプログラムをつくり申請するにしても、「この書き方は、国威宣揚のために不適当である」とか、「この思想は、国策に反する」とか、さまざまなクレームがつきか、ますます事務を遅らせた。それはまさに戦場というべきで、そのためゆっくりと休息を取ったり、フトンを敷いて熟睡するという余裕すらなく、握りめしを片手に不眠不休の仕事が続いた。木枯しの吹きすさぶ冬の最中、人々は凍える手に息を吹きかけ、睡魔と闘いながら机の下に毛布をかぶって仮眠し、ただひたすら一燈園の教えにしたがい托鉢の一字に徹した。何一つ愚痴を言わず、日本の福祉に、熱い心を燃やし続けたこの一団の情熱が、やがて展開されようとするヘレン・ケラー運動の原動力となったのである。」
サリバンのために来日。
ボーアを出迎えた仁科芳雄博士。1937年4月15日「浅間丸」。その船でヘレン・ケラーも来日。
「男女混浴」の温泉で泳いだヘレン・ケラー。
秋田犬とヘレン・ケラー。
秋田犬好きのヘレンは、渋谷のハチ公に会いに行く。
ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』をすでに熟読していたヘレン・ケラー。
三回目来日、日本酒好きで有名なヘレン・ケラー。
某国の「盲人村」で怒るヘレン・ケラー。
もくじ
もくじ
岩橋英行・著/日本放送出版協会1981年
ヘレン・ケラー三回来日と筆者。下「」引用。
「彼女は、昭和十二年、二十三年、三十年と三回にわたって来日した。第一回目は「奇跡の聖女」、第二回目は「幸福の青い鳥」、第三回目は「古き良き友」として、日本に降り立った。彼女の残した足跡は、またわが国の身体障害者の前進の歴史でもあり、まさに人々が探し求める「青い鳥」そのものであった。ヘレン・ケラー女史来日を、陰ながら企画したのは筆者の父、岩橋武夫であり、その関係から筆者は十二年のときにはヘレンの膝に抱かれ、二十三年のときには同じ道を求める良き先輩として、そして父の亡きあとの三十年には、彼の後継者として彼女に接した。」
平和を求めたヘレン・ケラーとサリヴァン……。
マスコミのパッシングはじまる。下「」引用。
「これは確かに、我々の知る、否、知らされているヘレンの姿とは異なったものではあるが、ヒューマニティーへの飽くなき追及には一徹なものがある。その後の後援旅行では、語調は増して厳しくなった。軍備反対、絶対平和の一貫した強固な意思が強く語られた。ヘレンを、「盲人のための女性大祭司」「驚異の女性」「現代の奇跡」として称賛していた新聞も、彼女が当面の社会問題に言及するや、その論調は一変し、辛辣な酷評を加え、彼女を攻撃した。このような過激ともいえる彼女の一連の行動は、彼女の収入の道をせばめ、ヘレンとサリバンを支える貯えも底をついた。」
そして映画出演。下「」引用。
「やむなく三十八歳のとき、自分の生い立ちを題材にした「解放」という映画に自ら女優として出演、チャーリー・チャップリンと共演するなど、ヘレンとサリバンはなりふりかまわず生活のために働いた。「品位がない」「金のために何でもする」--人々の非難は集中した。」
旅回りの一座と巡業をしたヘレンとサリヴァン。下「」引用。
「四十歳から四十四歳まで芝居や寄席で、旅回りの一座とともに巡業の旅も続けた。こんなある日、寄席の出番二時間前、ヘレンは母ケイトが死去したことを知らされた。芸人は人々の前に立たねばならない。いつものようにサリバンが前座をつとめ、続いてヘレンとの掛け合いが始まった。最後に、「ヘレン、あなたは幸福ですか」とサリバンはヘレンに尋ねた。彼女は笑顔で、「私は何も恐ろしいことはありません。本当に幸福です!」と、心の中の殺伐とした悲しみをこらえながら答えた。-略-寄席での収入は、講演や著作の印税よりも二人の生活を潤した。」
カーネギーの支援を1度は辞退……。下「」引用。
「一九一○年(明治四十三年)、富豪カーネギーは彼女たちの生活振りをみかね、生活援助の申し出を行なっている。二人はその好意に対し、「やれるところまでやってみます」と答え、これを丁重に辞退した。カーネギー負債は再考を求め、「いつでも必要なときは申し出て下さい。妻と私は、それまで快く刑の執行猶予を受けましょう」と答えている。しかしカーネギーの援助申し入れから四年後、ヘレンはやむなく彼に援助依頼をした。カーネギー負債は快くこれに応じ、ヘレンの手元にさっそく小切手が届けられた。同封の手紙に「運命は親切なものです。受くるよりも与うるの幸なるを感謝すべきは、小生と愚妻でございます」としたためることを忘れてはいなかった。」
高名な盲人学者塙保己一を尊敬していたヘレン。
来訪願う岩橋武夫。
サリバンはヘレンにさとした。下「」引用。
「わたしは、もういつ天国に召されるかわかりません。そのことを恐れてはいけません。遠い日本から、盲人事業啓蒙のために来ていただけないかとの依頼なら、喜んで行ってあげなさい。あなたをここまで教育して来たのも、そういう求めに応じ、全世界の不幸な人々と手を握り、みんなが幸福になれるようにとのためでした。もし私が元気だったら、三人ですぐにでも出かけるのですが……」
ヘレンは答えた。
「でも先生! 私はあなたを置いていけないのです」」
出版と一燈園。下「」引用。
「ヘレンを迎えるための拠点が完成し、続いてようやく待望の『ヘレン・ケラー全集』、すなわち、「私の生涯・其の一」「私の生涯・其の二」「私の生涯・其の三」「私の世界」「私の宗教」が、それぞれ日を追って刊行された。三省堂の内容見本には、各界の識者が推薦文を寄せた。一燈園の西田天香は「岩橋武夫がよい人という人は、よい人に決まっている」と語り、神戸商科大学教授の福田敬太郎、山室軍平、関西学院大学教授の竹友藻風らがヘレンの偉業を称え、身障者への福祉の拡大を願った。」
日本の軍部……。下「」引用。
「こうした中に、二人の日本人記者がヘレンを訪ねた。日本で、盲聾教育と同じように平和ついても話すかどうか尋ねた。
彼女は、「もしそういうことをしたら、日本の軍部は私を入国させたことを悔やむでしょう」と答えた。「でもあなたが、親善のメッセージの一部として、世界平和のために祈るというものであれば、それはまた一段と高度な課題への影響となるのではないか」と記者はすすめた。
ミゲールは、ルーズベルト大統領が、ヘレンを通して日本人にメッセージを送る意思があるかどうか、ホワイトハウスに意向打診した。ヘレンの周辺は、日本への訪問を控えあわただしくなっていく。」
一燈園の托鉢者たちの協力。下「」引用。
「昭和十一年十二月に来朝が決定し、翌年四月十五日にヘレンは到着するという。しかも最初の予定は二カ月の滞在であったものが、四カ月に延ばされた。当時のライトハウスには、わずか八名の職員がいただけで、日本国内だけでなく満州、朝鮮にも及ぶという膨大な旅行計画、スケジュール調整、ヘレンの講演会のもち方、各地の公会堂の予約、手配など、この陣容ではとうていまかないきれるものではなかった。武夫は西田天香に援助を依頼した。西田は、托鉢者として一燈園より選りすぐりの満留武智をはじめむ、境重蔵、鈴木八重造、杉山美淑、杉山とみ子、江谷まさ子をライトハウスに派遣した。
来日が目前に迫り、時間は限られているにもかかわらず、政府機関はじめ、満州、朝鮮を含む各種団体、公的機関への連絡は、膨大な事務であった。一つのプログラムをつくり申請するにしても、「この書き方は、国威宣揚のために不適当である」とか、「この思想は、国策に反する」とか、さまざまなクレームがつきか、ますます事務を遅らせた。それはまさに戦場というべきで、そのためゆっくりと休息を取ったり、フトンを敷いて熟睡するという余裕すらなく、握りめしを片手に不眠不休の仕事が続いた。木枯しの吹きすさぶ冬の最中、人々は凍える手に息を吹きかけ、睡魔と闘いながら机の下に毛布をかぶって仮眠し、ただひたすら一燈園の教えにしたがい托鉢の一字に徹した。何一つ愚痴を言わず、日本の福祉に、熱い心を燃やし続けたこの一団の情熱が、やがて展開されようとするヘレン・ケラー運動の原動力となったのである。」
サリバンのために来日。
ボーアを出迎えた仁科芳雄博士。1937年4月15日「浅間丸」。その船でヘレン・ケラーも来日。
「男女混浴」の温泉で泳いだヘレン・ケラー。
秋田犬とヘレン・ケラー。
秋田犬好きのヘレンは、渋谷のハチ公に会いに行く。
ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』をすでに熟読していたヘレン・ケラー。
三回目来日、日本酒好きで有名なヘレン・ケラー。
某国の「盲人村」で怒るヘレン・ケラー。
もくじ
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