磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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奇跡の人 塙保己一(はなわ ほきいち) ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人

2007年01月27日 | 読書日記など
『奇跡の人 塙保己一(はなわ ほきいち)
   ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人』
     堺 正一・著/埼玉新聞社2001年

この方を知らない日本人が案外に多いという。
こんな素晴らしい人物がおられたということを知ることは、たとえ障害をもっておられない方でも、生きる力になるだろうとボクは思います。
江戸時代に生れ生きた素晴らしい方です。



ヘレン・ケラーは三度来日しているという。
どうして、三重苦のヘレン・ケラーがそんなに来たのか、疑問に思っていました。
その理由の一つがここにあるような気がしました。
もちろん、世界中の障害者福祉のために一生をささげられた方でもありますが……。

はじめての来日。それは戦前の昭和十二年という。
平和使節として来日、当時映画や演劇で有名。
戦争はいつの時代でも弱者を痛めつけていましたね。


ヘレン・ケラーは埼玉県の講演で保己一のことについて語ったそうです。下「」引用。

「わたしは、今日、この会場に特別の思いをもってまいりました。それは、この埼玉県がわたしが尊敬する塙保己一先生の生まれ育った郷里であるということを聞いていたからです。わたしがまだ小さいとき、母は塙先生のことを、繰り返しこう話してくれました。『ヘレン、日本には、幼いときに失明し、しかも点字も何もない時代に、努力して学問を積み、一流の学者になった塙保己一という人がいたのですよ。だから、あなたも今は苦しいかもしれないけど、努力をすればどんなことでも必ずできるのです。塙先生を目標にがんばってごらんなさい』と。時にはくじけそうになったこともありましたが、この母の励ましによって、現在のわたしがあるのです」」


どうして、ヘレン・ケラーが保己一のことを知っていたか。
それは電話を発明したグラハム・ベルが教えたという。
グラハム・ベルは聴覚障害者の専門家でもあったのです。

ベルがはじめて電話で話した相手は、文部省から派遣された伊沢修一。
伊沢はグラハム・ベルから教えてを受け、ベルは伊沢から保己一の話をきいただろうという。

塙保己一は、日本一の学者の地位についてた方といってもいいでしょう。
しかし、その障害はかなりの困難があり、自殺未遂をされたこともあります。
いろいろな素晴らしい人の巡り合いによって、彼も大きく華をさかせたのでした。


素晴らしい方の生涯の生き方(話)が、素晴らしい方をさらに生んだ。
今は、ひどい話をおもしろがって、ひどい人たちが増えているのは仕方がないことかもしれませんね。

ヘレン・ケラーは素晴らしい仕事をしている永井隆博士のところを訪れます。
この喜びは非常に大きかったように、永井博士の文章に残されています。

ヘレン・ケラーは塙保己一に関連する所だけでなく、沖縄にまで足を伸ばしました。
三重苦で、75歳のヘレン・ケラーが、同じ障害をもっている方たちの勇気をほりおこすために……。

その心の底には、保己一への熱き思いがあったのです……。




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