『「九人の乙女」はなぜ死んだか
-樺太・真岡郵便局電話交換手集団自決の真相-』
川嶋康男・著/恒友出版1989年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「「九人の乙女の碑」「氷雪の門」に語り継がれきた“戦争秘話”を覆す衝撃の新事実。生地獄からの生還者たちが語った悲劇の真相! いま問い返される「昭和の記録」。」
「まえがき」 下「」引用。
「夏とはいえ真岡の朝を煙らす海霧は、心なしか冷ややかだった。いつもなら静かな海岸が見渡せる郵便局の二階から、一片のメッセージが電話回線に乗った。
〈皆さんこれが最後です さよなら さよなら〉
太平洋戦争が終結した五日後、昭和二十年八月二十日午前七時過ぎ、樺太・真岡町はソ連軍の急襲を受け、幾多の町民の命を巻添えにした。この惨禍を締めくくるような集団自決が、このメッセージの発信地、真岡郵便局電話交換室で起きた。」
殉国美談……。下「」引用。
「この「九人の乙女」の悲劇は語り継がれている。樺太の「終戦」を象徴するといわれる反面、その勇姿が殉国美談化され、流行歌や映画にもなった。
つまり、年若き乙女たちが決死の覚悟で電話交換業務を遂行し、女の誇りを守り抜くため、自ら命を絶った行為を「大和撫子」の鏡であるとして「殉国」へ昇華する構図である。」
モルヒネで死亡。下「」引用。
「二十日の朝、電話主事・菅原寅次郎の知らせを受けて局に駆けつけた電話交換手・志賀晴代もまた、自決の道を歩んだ。彼女が死出に向けて使用したのはモルヒネであったという。
〈姉は、看護婦の経験もあり、青酸カリではなくモルヒネを注射して死んで行ったと思われます〉(『北海タイムス』・昭和三十八年八月二十三日付)
晴代の妹トヨ子の証言である。」
ソ連の蛮行……。下「」引用。
「ソ連軍が樺太に侵攻してくるかも知れないとの情報を耳にした住民たちの間では、若い娘が乱暴されたり陵辱されることへの警戒が先にたった。事実、ソ連軍上陸後、占領地のあちこちで女性が被害を受けており、未然の防止策として頭を丸坊主にし、顔にスミを塗り、胸にはさらしを巻いて男装したり、防衛にはいろいろと苦心していた。」
『ハトブシ』 下「」引用。
「自決の手段としては、青酸カリのほかに、『ハトブシ』という紫の花の毒草が用いられた。これは、その草を摘んで軒下に干した自家製のものが用意されていたという。」
商業誌『“交換台に散った乙女”の真相』上田豊蔵・著。下「」引用。
「通信の業界誌、月刊『逓信文化』(株式会社逓信文化社発行)昭和四十年十一月号誌上に『“交換台に散った乙女”の真相』(資料編に全文掲載)という文章を発表したのである。-略-さらに『週刊読売』や『女性自身』、あるいは『家の光』などの商業誌に掲載された「九人の乙女」に関する記述が、核心に触れていないと非難したうえで、こう指摘する。
〈こんな雑誌は広く犯罪されても権威がないからよいが、然し電信電話のような公の機関誌の記事は違い、一般に真実と思い込ませる、その上全国の交換手に読まれる以上、誤りは断じて正さなければならないのです〉
つまり、巷間まことしやかに伝えられる「九人の乙女」の話が、当事者の一人として容認し難いほど脚色され、事実誤認のまま世間に流布されているのが耐えられないというのである。元真岡郵便局長として「真相」を伝えるのが狙いであった。-略-」
〈軍命令〉の集団自決ではなかったと、上田は主張する。
残留命令……。下「」引用。
「主事補の斎藤春子は、残留者を募る「指示」を局長・上田豊蔵の口から直接示されたと証言しているが、局長自身の口から、最後まで残って仕事をする交換手を募るよう頼まれた場合、職員の立場では「命令」と受け止めても不思議ではない。
春子の脳裏に、
〈特攻隊の隊長さんを仰せつかった〉
との思いが閃いても当然である。」
碑があるという。下「」引用。
「昭和三十八年八月二十日、宗谷海峡を望む稚内公園の一隅に建立された旧樺太島民の慰霊碑『氷雪の門』『九人の乙女の碑』(いずれも札幌出身の彫刻家本郷新氏の製作による)を記念して、稚内市と稚内樺太連盟主催による慰霊祭が行われた。-略-」
映画『氷雪の門』。下「」引用。
「昭和四十九年、金子俊男著『樺太一九四五夏』を原作に独立プロのJMPの製作により『氷雪の門』が映画化された。」
映画は東宝で上演される予定が降りたという。東宝では栗原小巻主演の『モスクワわが愛』が製作中であったという。
「氷雪の門」歌・畠山みどり。
【日本テレビ】霧の火-樺太
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もくじ
-樺太・真岡郵便局電話交換手集団自決の真相-』
川嶋康男・著/恒友出版1989年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「「九人の乙女の碑」「氷雪の門」に語り継がれきた“戦争秘話”を覆す衝撃の新事実。生地獄からの生還者たちが語った悲劇の真相! いま問い返される「昭和の記録」。」
「まえがき」 下「」引用。
「夏とはいえ真岡の朝を煙らす海霧は、心なしか冷ややかだった。いつもなら静かな海岸が見渡せる郵便局の二階から、一片のメッセージが電話回線に乗った。
〈皆さんこれが最後です さよなら さよなら〉
太平洋戦争が終結した五日後、昭和二十年八月二十日午前七時過ぎ、樺太・真岡町はソ連軍の急襲を受け、幾多の町民の命を巻添えにした。この惨禍を締めくくるような集団自決が、このメッセージの発信地、真岡郵便局電話交換室で起きた。」
殉国美談……。下「」引用。
「この「九人の乙女」の悲劇は語り継がれている。樺太の「終戦」を象徴するといわれる反面、その勇姿が殉国美談化され、流行歌や映画にもなった。
つまり、年若き乙女たちが決死の覚悟で電話交換業務を遂行し、女の誇りを守り抜くため、自ら命を絶った行為を「大和撫子」の鏡であるとして「殉国」へ昇華する構図である。」
モルヒネで死亡。下「」引用。
「二十日の朝、電話主事・菅原寅次郎の知らせを受けて局に駆けつけた電話交換手・志賀晴代もまた、自決の道を歩んだ。彼女が死出に向けて使用したのはモルヒネであったという。
〈姉は、看護婦の経験もあり、青酸カリではなくモルヒネを注射して死んで行ったと思われます〉(『北海タイムス』・昭和三十八年八月二十三日付)
晴代の妹トヨ子の証言である。」
ソ連の蛮行……。下「」引用。
「ソ連軍が樺太に侵攻してくるかも知れないとの情報を耳にした住民たちの間では、若い娘が乱暴されたり陵辱されることへの警戒が先にたった。事実、ソ連軍上陸後、占領地のあちこちで女性が被害を受けており、未然の防止策として頭を丸坊主にし、顔にスミを塗り、胸にはさらしを巻いて男装したり、防衛にはいろいろと苦心していた。」
『ハトブシ』 下「」引用。
「自決の手段としては、青酸カリのほかに、『ハトブシ』という紫の花の毒草が用いられた。これは、その草を摘んで軒下に干した自家製のものが用意されていたという。」
商業誌『“交換台に散った乙女”の真相』上田豊蔵・著。下「」引用。
「通信の業界誌、月刊『逓信文化』(株式会社逓信文化社発行)昭和四十年十一月号誌上に『“交換台に散った乙女”の真相』(資料編に全文掲載)という文章を発表したのである。-略-さらに『週刊読売』や『女性自身』、あるいは『家の光』などの商業誌に掲載された「九人の乙女」に関する記述が、核心に触れていないと非難したうえで、こう指摘する。
〈こんな雑誌は広く犯罪されても権威がないからよいが、然し電信電話のような公の機関誌の記事は違い、一般に真実と思い込ませる、その上全国の交換手に読まれる以上、誤りは断じて正さなければならないのです〉
つまり、巷間まことしやかに伝えられる「九人の乙女」の話が、当事者の一人として容認し難いほど脚色され、事実誤認のまま世間に流布されているのが耐えられないというのである。元真岡郵便局長として「真相」を伝えるのが狙いであった。-略-」
〈軍命令〉の集団自決ではなかったと、上田は主張する。
残留命令……。下「」引用。
「主事補の斎藤春子は、残留者を募る「指示」を局長・上田豊蔵の口から直接示されたと証言しているが、局長自身の口から、最後まで残って仕事をする交換手を募るよう頼まれた場合、職員の立場では「命令」と受け止めても不思議ではない。
春子の脳裏に、
〈特攻隊の隊長さんを仰せつかった〉
との思いが閃いても当然である。」
碑があるという。下「」引用。
「昭和三十八年八月二十日、宗谷海峡を望む稚内公園の一隅に建立された旧樺太島民の慰霊碑『氷雪の門』『九人の乙女の碑』(いずれも札幌出身の彫刻家本郷新氏の製作による)を記念して、稚内市と稚内樺太連盟主催による慰霊祭が行われた。-略-」
映画『氷雪の門』。下「」引用。
「昭和四十九年、金子俊男著『樺太一九四五夏』を原作に独立プロのJMPの製作により『氷雪の門』が映画化された。」
映画は東宝で上演される予定が降りたという。東宝では栗原小巻主演の『モスクワわが愛』が製作中であったという。
「氷雪の門」歌・畠山みどり。
【日本テレビ】霧の火-樺太
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